カナヘビくん

 

先日ベランダにあらわれたのと同じカナヘビだと思います。
数日しか経っていませんから、
あいかわらず小さい。
ちょろちょろちょろちょろしています。
しっぽが青くきれいなので
つい見とれてしまいます。
エアコンを除湿にセットしていると、
室内の水分がかたまりとなって外に流れますが、
その水に近寄り
飲みはじめました。
しばらくすると、
あたまをあげ
おおきくのけぞらせ、
いかにも美味しそうです。
またあたまを下げて、ふたくちめ。
やがて満足したのか
ちょろちょろ這って暗いところへすがたを隠しました。

 

・かなへびの喉しめらせて水しずか  野衾

 

サルバドール・ダリ

 

中学校の美術の教科書にのっていたのを見た
のが最初だったと思います。
「記憶の固執」
なにか四角い大きなものの角に置かれた時計が
くにゃりと曲がり、
枯れ木の枝にも時計がかかっていて
こちらも二つ折りみたいにやわらかい。
好きでも嫌いでもなく、
ただなんとなく印象にのこった気がします。
思い出したのはわけがありまして、
自宅で使用している
マウスパッド。
革製品をあつかう店の外に「どれでも五百円」で売っていた
革の切れ端を買いました。
けっこう大きかったので
てきとうにハサミで切ってつかっています。
それが下の写真。
それを見て
アッ!
思い出したのでした。

 

・ダリの時計くにゃりくにゃりの大暑かな  野衾

 

カラスの声

 

目が覚めてから数分、
ながければ一〇分ほど起きずにじっとしています。
と、
そとでカラスの声。
一羽のこともあれば、
遠くでさらに一羽、二羽の声が重なることもあります。
雨模様、あるいは
すでに降り始めている日のカラスの声
というものは、
なんともけだるく重苦しい。
デレ~、ドロ~、ダラ~、
そんな感じ。
こっちまで。
けさはそれほどでもなく…
いよいよ梅雨明けか!?

 

・五月雨を塩辛声の烏かな  野衾

 

芙蓉

 

自宅近くの山道脇で鉢植えの花を育てている方がおり、
とおるたびに楽しませてもらっています。
花の名前をあまり知りませんが、
あいさつがてらしばらく立ち話することも。
つたない感想を口にすると、
うれしそうにわらっています。
選挙の日の朝階段を下りていくと、
ぱあっと芙蓉の花が咲いていました。

 

・日暮らしや吾も相模もさみだるる  野衾

 

通り過ぎる馬

 

岩波の完訳三国志を読んでいましたら
二度ばかり、
家の前を馬が通り過ぎるような
という比喩がでてきまして、
これは
人生の短さをたとえたものだということで、
そういわれると、
馬が家の前を走っていくのは
アッというまのことでしょうから、
納得します。
が、
家の前を通り過ぎるものとして
なぜ馬か、
というところが中国風でおもしろいと思います。

 

・南風や雲の切れ間の光りをり  野衾

 

カナヘビ

 

ちっちゃなカナヘビがベランダに現れました。
ちっちゃいちっちゃい。
と、
またすぐに同じようなのが。
きっといっしょに生まれたのでしょう。
幼体を示す青のしっぽがきれいです。
ちょろちょろちょろちょろ。
えさをさがしているのでしょうか。
立つことを覚えた赤ん坊が立ったりしゃがんだりを繰り返すみたいに、
あちこちちょろちょろちょろちょろ。
ほかはなんにも動きません。

 

・とかげ来てまた二匹目のとかげかな  野衾

 

五臓の鬱結

 

万葉集の868から870の三首は、
松浦巡行に参加できなかった山上憶良が
不満と羨望をこめて大伴旅人に謹上した作とのことですが、
その前文に、
「謹みて三首の鄙歌(ひか)をもちて、
五臓(ごぞう)の鬱結(うつけつ)を写(のぞ)かむと欲(おも)ふ」
とあります。
これについての伊藤博さんのかんがえは下のとおり。

 

詩歌は人間の鬱情を払う具であるという認識を明確に示す、日本での早い時期の語句で、
注目に値する。
この認識は、前期の人麻呂においてすでに顕著であり、
憶良・旅人へと深められ、家持へと盛り上げられていくが、
こういう語句は、
人麻呂にはまだない。
(伊藤博『萬葉集釋注 三』p.139、集英社文庫、2005年)

 

人間の鬱情を払うために歌をよむのか…
なるほど。
そのことをふまえて万葉集の歌群をみていくと、
合点がいくものが少なくなく、
また、
千三百年のときをこえて、
歌にこめられたこころがひしひしと感じられもし、
ひとごとでない気がしてきます。

 

・かたつむり牛の涎の歩みかな  野衾