中学校の美術の教科書にのっていたのを見た
のが最初だったと思います。
「記憶の固執」
なにか四角い大きなものの角に置かれた時計が
くにゃりと曲がり、
枯れ木の枝にも時計がかかっていて
こちらも二つ折りみたいにやわらかい。
好きでも嫌いでもなく、
ただなんとなく印象にのこった気がします。
思い出したのはわけがありまして、
自宅で使用している
マウスパッド。
革製品をあつかう店の外に「どれでも五百円」で売っていた
革の切れ端を買いました。
けっこう大きかったので
てきとうにハサミで切ってつかっています。
それが下の写真。
それを見て
アッ!
思い出したのでした。
・ダリの時計くにゃりくにゃりの大暑かな 野衾
万葉集の868から870の三首は、
松浦巡行に参加できなかった山上憶良が
不満と羨望をこめて大伴旅人に謹上した作とのことですが、
その前文に、
「謹みて三首の鄙歌(ひか)をもちて、
五臓(ごぞう)の鬱結(うつけつ)を写(のぞ)かむと欲(おも)ふ」
とあります。
これについての伊藤博さんのかんがえは下のとおり。
詩歌は人間の鬱情を払う具であるという認識を明確に示す、日本での早い時期の語句で、
注目に値する。
この認識は、前期の人麻呂においてすでに顕著であり、
憶良・旅人へと深められ、家持へと盛り上げられていくが、
こういう語句は、
人麻呂にはまだない。
(伊藤博『萬葉集釋注 三』p.139、集英社文庫、2005年)
人間の鬱情を払うために歌をよむのか…
なるほど。
そのことをふまえて万葉集の歌群をみていくと、
合点がいくものが少なくなく、
また、
千三百年のときをこえて、
歌にこめられたこころがひしひしと感じられもし、
ひとごとでない気がしてきます。
・かたつむり牛の涎の歩みかな 野衾







