とがの先生

 

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、
倉に取りいれることもしない。
それだのに、
あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。しかし、
あなたがたに言うが、
栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 

わたしが横須賀の高校に勤めていたとき、
先輩の教師にとがの先生という方がおられました。
たしか栂野、
と書いたと思います。
キリスト教主義の学校でしたから、
聖書をひらく機会が多く、
たとえば教師が順番で担当する朝の放送礼拝では、
それぞれ気に入った聖書の箇所を読み上げるのがならいでした。
とがの先生はよく上の文章を読み上げられた。
「マタイによる福音書」第六章26-29節。
わたしも好きな聖句ですが、
とがの先生には及ばなかった。
読み上げる頻度がちがっていました。
というか、
先生がほかの聖句を読み上げたことを思い出せません。
いくらなんでも、
そこだけということはなかった
と思いますが、
とつとつと語る先生のことばは質量を伴いひとつひとつ刻まれるようなもので、
その声といっしょに鮮やかによみがえります。
なぜそれをいま思い出したのか。
季節が巡り、
空をたのしむ時を迎えたからかもしれません。

 

・新涼や朝の光のやわらかき  野衾

 

リニューアルオープン

 

定期的にかよっている病院が改装され、
ピッカピカでひろびろとした気持ちのよい空間に変りました。
きのうは二度目。
機械に診察券を入れ、
その日の診察番号を書いた用紙をもらいます。
これでよしと。
132番。
ひろい総合待合場の椅子に腰かけ、
バッグから読みかけの文庫本を取り出します。
ひょいと見上げると、
電光掲示板に診察科とその下に番号が表示されています。
なるほどなるほど。
132番はどこにもなし。
さてと。
予約の時間までにはしばらくあるから、
ということで、
時間つぶしに本を読むことに。
五ページ、七ページ、十ページ、そろそろか。
さてと掲示板。
132番。
ん、まだか。
本に目を落としさらに一ページ。
掲示板。
132番。
まだ。
いちれんのこの行動の繰り返し。
すでに予約の時間はとっくに過ぎている。
と、
「132番の三浦さーん、132番の三浦さーん」
「はい。はいはい」さっと手を挙げる。
きけば、
機械でその日の番号をもらうだけではだめで、
さらに、にんげんのいる受付で受付をしなければいけないのだった。
そうだったのかー!!
そういえば、
初めてのとき、
右往左往しながらひとに聞いて済ませたけれど、
冷静に振り返ってみれば、
そんなようなことだったかもしれないとようやく気付いた。
まだ学習が足りないようです。
とりあえず無事診察終了。
ふ~。

 

・曉烏いまぞ静けし秋の海  野衾

 

稲刈り

 

父に電話できいたところ、
例年に比べ二、三日稲刈りが早まったらしく、
なおかつ
一反歩あたりの収穫量が例年より多いということで、
仕事疲れもふっとぶ勢い。
今夏気温がことのほか高かったのが
稲の実りにはプラスに作用したようです。
八月に米寿をむかえた父ですが、
歳をとっているとはいえ、
この時期の声がいちばんつよく張りがある。
「きょうはオロナミンCを三本飲んだ」と笑っていました。
疲れるとあちこち痙攣を起こすらしいのですが、
そうなったとき
オロナミンCを飲むと治ると信じ、
じっさい治るそうですから不思議といえば不思議。

 

・かなかなや社境内白装束  野衾

 

悪い句の見本

 

藤田湘子の『新版 20週俳句入門』を読んでいましたら、
以下のような内容を盛り込もうとすると
まちがいなく失敗する、
どころか、
俳句の体をなさなくなるとしています。
それは、
・道徳観、倫理観、教訓。
・理屈、分別臭。
・風流ぶり、気どり、低劣な擬人法。
・俗悪な浪花節的人情。

その悪い見本としてこんな句があげられています。

×蟬鳴くやこの世に命ある限り
×風化せぬ悲しみあらた終戦日
×蓑虫に似たるさだめか母老いぬ
×毛糸編夕日をひそと編みこめぬ
×薔薇咲いて恥ぢらひ我に教へけり
×小さき庭小さい秋の風生まる

藤田湘子は、
これらの句を俗悪であるとして手厳しく批判し
しりぞけています。
そういう句を新聞の投稿欄などで目にすることがありますが、
わらって他人事ですますわけにはいきません。
作句しているときに
ふとあたまに浮かぶこと間々あり。
自戒しなければ。

 

・かなかなや社のうしろとつぷりと  野衾

 

秋の日の…

 

仕事帰り社を出ると、こころなしか、ひんやりしている気がしました。
秋の日は釣瓶落としのことばどおり、
暮れるのも早くなりました。

 

秋 の 日 の
ヸ オ ロ ン の
た め い き の
身 に し み て
ひ た ぶ る に
う ら 悲 し。

……………

 

ポール・ヴェルレーヌの詩「落葉」の第一連。
ひたぶるにうら悲し。
ひたぶるに、
か。
上田敏の訳詩集『海潮音』に入っているものですが、
若いころは
こんなの見てもなんとも思わなかった
のに、
まったく、
季節の移り変わりとおんなじように、
いつの間にか、
「秋の日のヴィオロンの…」
とアタマをかすめ、
えーと、だれだっけ、
となるじぶんに驚いているじぶんがいます。
いまなら
もっとほかの訳もあるようですが、
すこし古風な上田敏の訳が秋のもの悲しさには合うようです。

 

・曉(あかとき)の光り跳ね入る鯔日和  野衾

 

アランの人間観

 

定理を一つよけいに学んだことは、偶然の出来事にすぎない。
定理を一つよけいに知っているために〔他人を〕軽蔑しようとする人々を見かける。
彼らはこうして、文章を三行読んだということで、
人びとの精神に一種の恐怖を植えつける。
だが、
さらに三行よけいに読んだ別の人がすぐさま見つかるもので、
これには限りがない。
これはまた悪しき無限である。
いっさいを知る人は、諸精神に固有な偉大さにおいて、
一事を知る人より偉大なのか。
これは疑問である。いやむしろ疑問ではない。
ソクラテスは、私たちが知っている多くのことを知らなかったけれども、
断じて小さな精神ではなかった。

 

上の文は、
米山優著『アラン『定義集』講義』(p.508、幻戯書房、2018年)
からの孫引きで、
アランの『人間論』にでてくることばだそう。
米山さんのこの本には適宜引用がなされていますが、
いずれ『人間論』も読みたいと思います。

 

・友去りて呆けて居たり残暑かな  野衾

 

遅ればせの矢沢ファン

 

矢沢永吉さんのことですが…。
キャロル時代の頃から知ってはいましたが、
知っているだけ。
熱烈なファンが多いなか、
ただのファンでもなく、
たとえばカラオケで歌うことはなく、
たまに歌っているひとがいると、
顔から動きからすっかり“永ちゃん”になりきっていて、
ちょっと呆気にとられたり。
わたしが矢沢永吉を意識して聴いたのは、
彼が2012年のNHK紅白歌合戦に出演し、
「IT’S UP TO YOU」を歌ったのを見たときでした。
登場からはじまり、
歌っているときの姿、かたち、すべて目が離せませんでした。
オーラがほかの歌手とまったくちがって見えた。
すなわち、
カッコいい!!
その後、はじめて矢沢さんのCDを購入し、
ときどき聴いていました。
先日、
世話になっている鍼灸の先生のところへ行ったとき、
矢沢永吉の「ひき潮」を聴かせてくださり、
(先生、矢沢さんのかなりのファン)
歌がはじまった瞬間、
文字どおりザワザワっと鳥肌が立った。
いいなあ! って思いました。
それで今度は、
EIKICHI YAZAWA 40th ANNIVERSARY LIVE『BLUE SKY』のDVDを購入。
紅白歌合戦をのぞき、
歌う矢沢さんをちゃんと見たのはこれが初めて。
で。
ミック・ジャガーの動きになんと似ていることよ。
歌の途中の「ハイハイハイ」の盛り上げがサブちゃんの「まつり」みたい。
思わず笑ってしまう。
そしてその明るさ、エネルギー、向日性、
むむ、
だっ、だれかに似ている、
だれだ? だれだ? だれだ?
そうか、そうだ、
三波春夫!
E.YAZAWAはロック界の三波春夫だ。
なんて。
そんなのがファーストインプレッションで。
とにかく見る前と見た後では気分と体調がぜんぜんちがう。
元気になります。
というわけで、
超超遅ればせの矢沢永吉ファンです。

 

・かなかなや吾と社に降りなづむ  野衾