更新時講習

 

運転免許証の更新手続きのため、保土ヶ谷警察へ。
五年ぶりになります。
更新時講習として15分間のビデオ上映と15分間の講師による講話。
ビデオは、ひょっとして五年前のものと同じか、
と思いきや、
そうではありませんでした。
事故動画の説明をする方が、映像の中で、凡そこんなことを語っていました。
ひとつのことに集中すると全体が見えなくなり、
全体をまんべんなく見ようとすると、
ひとつひとつのことは疎かになるのが人間です。
矛盾を回避するためには、
同時に行うのは無理だから、
ここではこれを、つぎにはこれを、と、
注意すべきところを決め、
時間をずらしながら集中することが重要です、云々。
実際的な訓えであると感じ、
こと自動車の運転だけではないと思いました。

 

・店までの鼻唄ひとつあらばしり  野衾

 

郭、郊、野

 

城の外を郭と曰ひ、郭の外を郊と曰ひ、郊の外を野と曰ふ。
周の制度では、
国都を去ること五十里以内を近郊と曰ひ、
百里以内を遠郊と曰ふ。郊とは即ち是れである。
野といふは、
郊よりも一層外である。
彖に「人に同じくするに野に于てす」といふは、
遠い曠い野に居る人とまでも協同一致するといふ意味に用ひてある。
(公田連太郎[述]『易經講話 二』明徳出版社、1958年、pp.93-94)

 

漢字はおもしろい。
一字でちゃんと意味があり、きっちり区別がある。
郭、郊、野。
弊社は、二十周年の記念誌『春風と野』をつくりましたが、
易の言葉の説明からいっても、
亨るタイトルであったと安心し、
意を強くしました。

 

・靴音や港横濱秋深し  野衾

 

空のこと

 

高校の一年生と三年生の時の担任が同じで、
たしか武藤先生とおっしゃいました。
小柄で物静かな国語の先生、わたしは陸上競技部に所属していましたから、
武藤先生の語り口調は、
耳に心地よく、子守歌のようでもあり、
授業中よく居眠りをしました。
とくに注意されることはなかったと思います。
一年生のときだったか、
三年生のときだったか、
目を覚ましているときに、教科書に出てきた「空」の話をされた。
空というのは、何もないことではない、
無というのともちがう、
そんなことをぽつぽつと語りながら、
ほんのしばらくでしたが、
視線を宙に据えていたのを覚えています。
言葉で説明するのはなかなかに難しいという風でもあり、
はたまた、
ご自身の過去を思い出している風にも見えました。
ともかく、
空というのは、どうやら、
中身のない「から」ではなく、
実のあるものらしいということだけは、
ぼんやりと感じました。
さて、公田連太郎の『易經講話』ですが、
そのなかにおもしろい文章がありました。
「私(エゴ)」の有る無しのちがいによる認識のありかたについて、
公田さんの考えを吐露した箇所で、
そこを読みながら、
高校時代のあの空間と時間が
にんじゃりばんばん、鮮やかに、
よみがえりました。

 

中が空虚であるのは、一点の私の心が無いのであり、即ち誠実である。
中が充実して居るのは、誠が中に充実して居るのであり、即ち誠実である。
一点の私の心の無い方面から、空虚なる者を誠とするのである。
内容が充実して居る方面から、充実したる者を誠とするのである。
両方の極端は一致するのである。
程子(伊川先生)は、
「中(うち)虚なるは信の本なり、中(うち)実するは信の質なり」
と曰つて居られる。善い格言である。
(公田連太郎[述]『易經講話 一』明徳出版社、1958年、pp.560-561)

 

・磴一段一段毎の紅葉かな  野衾

 

ハナコの岡部大

 

このごろテレビでよく目にするハナコの岡部大さん。
わたしは観ていませんが、
NHK連続テレビ小説『エール』にも出演し、
ますますブレイクしているような。
さて。
今ほどでなく、もう少し前に、
たまにテレビで見るぐらいの時だったと思いますが、
「あれ、この人、どこかで見たことあるぞ」
と「?」がもたげ、
いつだ? どこだ? なにで?
こんなふうに感じたことがありました。
しばらく悶々としていたのですが、
ピカッと閃くところがあり、
調べてみたら、やっぱりそうでした。
前置きが長くなりました。
わたしが通った高校の同窓会誌というのが年に二回発行されていて、
それに、岡部さんの文章が載っていたのでした。
顔写真も付いていた。
そうか。そうだったか。スッキリ!
同じ高校の卒業生となると、
ますます意識して見るようになり、
岡部がんばれ! と、エールを送っているきょうこの頃。

 

・秋澄むや鳥行き丘は葉の揺るる  野衾

 

仕事師の手帳

 

キリスト者新井奥邃(あらい おうすい)は、
聖書を「仕事師の手帳」であると記しています。
その言葉を切実に感じ出したのは、齢五十を過ぎてからだった気がします。
聖書を「仕事師の手帳」と称した奥邃の魅力に
ますます取りつかれましたが、
きのうここに書いた公田連太郎の『易經講話』を読んでいると、
易は、まさに「仕事師の手帳」であると感じます。
本のなかで公田さんは、
工夫・応用が大切であることを幾度も強調されています。
字面を理解して終りにするのではなく、
たとえば、
百姓は百姓なりに、お笑いの人はお笑いの人なりに、教師は教師なりに、
工夫し応用する。
そんなふうに読まないと「本当の易」にならない、
そういうことのようです。
工夫・応用が大切なのは、聖書も同様であるなと。

 

・立ち尽くす秋の渚の黙すかな  野衾

 

「本当の易」とは

 

哀しみも楽しみも皆同じわけである。むやみに感情をおさへ、
為すべき事を控へ目にすることを、中といふのでは無い。
これを善く理解して置かぬと、易の中は分らぬ。
中庸の中も実は同じことである。
易の中は、
活発に活動し変化して、一刻も停止してゐない中なのである。
今日は斯うすることが中であつても、
明日はそれでは中にならぬのである。
時時刻刻に変化するのである。
卦の形の上では、中は真中に在るけれども、
それを活用する上では、終始動いて変化して居るのである。
これを善く理解しないと、
本当の易にはならぬのである。
(公田連太郎[述]『易經講話 一』明徳出版社、1958年、pp.54-55)

 

中国の古典、たとえば、論語や老子、荘子を読んでいると、
どうやらベースに易があるということを感じますから、
公田連太郎の『易經講話』を古書で五冊まとめ買いしていましたが、
なんとなく読まずに来ていたところ、
ユングの『結合の神秘』に何度か易のことがでてきましたので、
これを機に読もうと思い読みはじめたら、
一巻目の初めの方に、上で引用した文言が現れ、
そうか、と、納得するところがありました。
易というと、
占いのことと思いがちですが、
それだけではない、もっと奥の深い、
人事を含む宇宙万物の変化の理法を明らかにするというところに、
その根本義があるようです。
ちなみに公田連太郎の師匠にあたる人物に根本通明(ねもと みちあき)がいますが、
この人は秋田生まれだそう。
最近になってそのことを知りました。

 

・でたらめの言葉の秋の渚かな  野衾

 

『未成年』

 

秋田県横手市生まれで、2012年に43歳で亡くなった漫画家に、
土田世紀というひとがいたことを、
これまで知りませんでした。
松本大洋の発言の中に、
土田に対するなみなみならぬ気持ちが表れている気がし、
さっそく読んでみました。
『未成年』
これがデビュー作だそうで、
当時土田は17歳。
花のセヴンティーン。
これが花のセヴンティーンが持つセカイカンだが?
「だが?」は秋田方言で、
「~でしょうか?」
ぐらいのニュアンス。
話のなかにチラッと永ちゃんの名
が出てきますが、
登場する高校生たちの風貌も、
どこか若き日の永ちゃんを彷彿させるものがあるので、
永ちゃんの曲をかけながら、
『未成年』を楽しんだのでした。
土田にはそのものズバリ『永ちゃん』という作品もあるらしく、
そちらも読みたいけれど、
どうやら絶版のようで、
代わりに、
というのも変ですが、
矢沢永吉の『成りあがり』を途中まで読みました。
このごろテレビでよく見る出川哲朗のバイブルだというのも分かる気がします。
それと、
きのうずっと聴いて思ったのですが、
矢沢永吉の歌には、
根っこに揺るがぬ明るさがある気がします。
『成りあがり』を読むと、
そうとう苦労したひとであることが分かりますが、
イジケたりヒネクレたりしていない。
根の明るさは、
三波春夫に通じる筋金入りのものであると感じます。
なぜそう思うかといえば、
しばらく聴いた後、
じぶんの体の芯がほてって、
いい時間を過ごしたナと、
まるでほのかな恋でもしているような気分になっている
ことに気づくからです。
さて土田世紀、
すでに亡くなっているのは残念ですが、
また一人、
あたらしい才能に巡り合いました。

 

・言の葉のなぎさに秋の佇めり  野衾