意識と経験

 

私が採用している原理は、意識が経験を前提としているのであって、
経験が意識を前提しているのではない、
ということである。
意識は、
或る感受の主体的形式における特別の要素である。
したがって現実的存在は、
その経験の或る部分を意識するかもしれないし、意識しないかもしれない。
(A.N.ホワイトヘッド[著]/平林康之[訳]『過程と実在 コスモロジーへの試論 Ⅰ』
みすず書房、1981年、p.77)

 

先月末、
佐藤陽祐さんの『日常の冒険 ホワイトヘッド、経験の宇宙へ
を出版しましたが、
そこに多く引用されていた『過程と実在』
が面白そうでしたので、
いい機会と思い、
古書を買い求め読みはじめたら、
数学から学問を始めた人らしく、伸びやか、
かつ、
広々とした世界へいざなわれるような、
そんな風景が展開しています。
上で引用した箇所など、なるほどその通りと合点がいくし、
佐藤さんの論考をさらに追体験できた気がし。
また、メルロ・ポンティの『知覚の現象学』を思い出したり。

 

・野良猫がぺろり舌出す暑さかな  野衾

 

トークのつづき

 

昨日、
つきあいのある大学の先生のお声がかりで、
リモートによる講義によばれ、話す機会がありました。
読書についていろいろ話すなかで、
ドストエフスキーの『罪と罰』中、
殺人を犯したラスコーリニコフと娼婦のソーニャについて触れながら、
『聖書』にでてくるラザロの復活のシーン
を取り上げました。
死んだラザロについて、
姉妹のマルタがイエスに向かい、
「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」
と告げる。
墓から石を取り除けさせたイエスは、
「ラザロ、出てきなさい」
と大声で叫ばれ、
死んでいたラザロは、
手と足を布で巻かれたまま出て来たと「ヨハネによる福音書」に記されてます。
そこの箇所を紹介しましたが、
それとの関連でわたしがつねづね感じていることがあり、
ひょっとしたら、
きのう話を聞いてくれた学生さんの中に、
このブログを読まれる方があるかもしれないと想像し、
以下に書き残すことにします。
日本では、
著者の名前や発行年、発行元などの書誌情報を記した「奥付(おくづけ)」を、
本や雑誌の最後のページに入れるのがふつうです。
この「奥付(おくづけ)」ですが、
これと似たことばに「奥都城(おくつき)」があります。
こちらは、上代における墓、
あるいは、
神道式の墓のことで、
「奥付(おくづけ)」と「奥都城(おくつき)」では
とくに関連が無いのかもしれませんが、
わたしは、
本の「奥付(おくづけ)」は、
読みだけでなく、
意味からいっても、
「奥都城(おくつき)」=墓に似ていると感じています。
『聖書』はもとより、
プラトンでも、アリストテレスでも、
また『万葉集』でも『源氏物語』でも、
作者はとっくに亡くなっており、本はいわば墓のようなものであるけれど、
本を手に取り、ページをひらけば、
千年、二千年、いや、それ以上前に亡くなった人の魂がよみがえり、
いま現在のわたしに生き生きと語りかけてくる。
そういう視点からいうと、
「奥付(おくづけ)」のある本の風景が、
またちがって見えてきます。

 

・保土ヶ谷の川も蕎麦屋もさみだるる  野衾

 

赤ちゃんの気持ち

 

本を読んでいて、ふと、あれ、いま何て書いてあった?
となり、
あわてて前の行、
さらに前まで戻ることがたまにあり、
むずかしい本を読んでいる時になるのかといえば、
そういうわけでもなく、
なのに、
なんども同じ行を読み返し、読み返し、
しているうちに、
なんとなく、
ふわふわしてきて、
ちょっと風邪のひき始めような体のざわつきを感じ、
ちょっぴり気分が悪くなり、
泣きたいような気持ちでもありまして、
仕方がないから目を瞑る。
ちょっと落ち着く。
いいや、
このままで。
まなうらに先ほどの文字列が浮かび、弾け、
やがて消え。
空には雲がぽっかりで。
かと思えば、
ヘビだったり。
ゴミ出しの日ではない。
けむりがもくもく、踏切の焼き鳥屋、きのうは休み。
アイスが食べたいな。
と。
あ。
い。
眠った!
寝ていたのか。
どうりで。
しゃっきりした。
六十年以上さかのぼり、物心がつく前、文字はもちろん読めないけれど、
おんなじような気持ちになって泣いていた、
気がします。
赤ちゃんが泣くのはいろいろ
だろうけれど、
眠たい時にも泣くから、
それを追体験したような具合。
へんな感じ。

 

・梅雨晴れ間遮断機横の焼き鳥屋  野衾

 

ある想像

 

電車のなかで読むのは文庫本と決めており、
いまは、岩波文庫『文選』の第二冊。
そのなかに、
王粲(177-217)という詩人の「七哀詩二首 其の一、其の二」が収録されている。
後漢末の初平四年(193)、王粲は長安の動乱を避けて荊州の襄陽に赴く。
「其の一」は、長安を発つ際、
戦乱による国の荒廃ぶりを目のあたりにして湧き起こる悲しみをうたう。
と、解説にある。
ところで目をみはったのは、
「其の一」の八句目から十二句目。

 

白骨 平原を蔽う

路に飢えたる婦人有り

子を抱きて草間に棄つ

顧みて号泣の声を聞くも

涕を揮いて独り還らず

 

この箇所に対応する日本語訳はといえば、
「ただ白骨が平原を埋め尽くす。
路傍には飢えた一人の婦人、抱いていた子を草むらに捨てる。
泣き叫ぶ声にふりかえるが、涙を払い、もどろうともせず一人去ってゆく。」
わたしはすぐに松尾芭蕉『野ざらし紀行』冒頭、
有名な富士川の場面、捨て子にかんする散文描写と俳句を思った。
「猿を聞人 捨子に秋の風いかに」
この箇所について、
リアルな話なのか、フィクションなのか、
さまざまに議論がなされてきたことは承知していたが、
いずれにしても、
わたしは腑に落ちなかった。
リアルな話ならば、
捨て子を詠んで去っていく風流に疑問が湧き、
フィクションだとすれば、
どうしてそんな虚構をこしらえたのか理解できなかった。
が、
王粲の詩を読み、
これを下敷きにしていたとすれば納得がいく。
杜甫をこころの師としていた芭蕉は、
杜甫が愛読していた『文選』のことを知っていて、
だけでなく、
おそらく、
読んでもいただろう。
『文選』は古く日本に入ってきており、
『白氏文集』と同様によく読まれていたらしい。
山本健吉は『源氏物語』「手習」における浮舟の歌とのひびき合いを記しているが、
それもあるかもしれないけれど、
わたしは、
王粲の詩とのひびき合いにさらに深いものを感じる。
王粲のこの詩には猴猿(こうえん。「猴」も猿)が登場するが、
中国の詩では、
哀愁を誘うものとして猿の鳴き声が詠われるそうで、
「七哀詩二首」はその早い例だという。
「野ざらし紀行」とのひびき合いはここからも感得できる。
芭蕉の旅は、
空間の移動だけでなく、
時間の旅でもあったことが分かる。

 

・見上ぐ子の雨を拭きとる傘の母  野衾

 

ことばの経済効率

 

毎週木曜日のテレビは『プレバト!!』
と決めていますが、
「俳句の才能査定ランキング」の先生は、
夏井いつきさん。
夏井先生が割と口にすることばの一つに「経済効率」があります。
タレントの的場浩司さんが、

 

職質をするもされるも着膨れて

 

の句を披露したときにも「職質」をとらえ、
「経済効率がいい」と、
たしかおっしゃった。
「職質」ということばによって
「状況が全部立ち上がってくる」と。
ちなみに、
的場さんのこの句はその後、
石寒太さん編著の『歳時記』に掲載されたそうです。
さて夏井先生がおっしゃる
「経済効率のいいことば」
ですが、
俳句に限らずのことだなぁと感じます。
俳句は十七音ですから、
一つ一つのことばの持つ情報量と互いのひびき合いが肝心ですけれど、
これは、
わたしの仕事でいえば、
書名を考えるときに応用ができそうです。
目の前の原稿を精読、
エッセンスをよく理解し、解釈し、
編集の時をへて本が完成し読者に届いたときに、
書名から読み手が本のエッセンスを想像し、
そこに至るような、
ニュアンスのある単語をえらぶ。
このごろでいえば、
『日常の冒険 ホワイトヘッド、経験の宇宙へ』
がそうだったかな。
著者に気に入っていただければ、
言うことなし。

 

・五月雨竹林に盈つほてりかな  野衾

 

安心が危険

 

若いころ、
自宅で骨折した話を読んだり聞いたりすると、
野外でならわかるけど、
どうして家のなかで骨を折るような大けがをするのか
不思議に思ったものでした。
が、
還暦を過ぎた今、
そのことがようやく身にしみて理解できるようになりました。
たとえば畳。
これが危ない。
夕飯は畳の部屋と決めており、
折り畳み式の小さなテーブルを出すのですが、
裸足でも、靴下を履いていても、
畳の目の方向に足を載せると、
一所懸命だけれどつまらぬお笑い芸人ほどに、つるりと滑る。
畳がこんなに滑るとは。
それがこのごろの発見です。
また、
一日のいろいろを終えて、やれやれ、
どっこいしょ、
床に就こうとするときも、
危ない。
布団は柔らかいという先入観がありますから、
からだを丸ごとドシンと布団に落とそうとして、手を突っ張る。
一瞬ですが、
手首に相当な重量がかかる。
これが危ない!
というようなことでありまして、
こころを安んじ力が抜けることの多い自宅ではあるけれど、
それは危険と隣り合わせなんだ、
と、
このごろ実感しています。

 

・保土ヶ谷を水墨画にして通り雨  野衾

 

本の外の本

 

むかし松坂慶子さんが歌った歌に「愛の水中花」がありました。
作詞は五木寛之さん。

♪これも愛あれも愛たぶん愛きっと愛…

そんなふうに始まる歌でした。
1979年リリースとのことですから、
四十二年前。
もうそんなになりますか。
長田弘さんの詩「世界は一冊の本」の冒頭を思い出しているうちに、
連想のシナプスが、あらぬ方向へ連結され、
そういえば、
これも愛、あれも愛、
って歌があったな、
と。
枕が長くなりましたが、
朝、
お気に入りの一人掛けソファに体を預け、
読みかけの本の頁を追いかけていると、
視界の上部を横切るものがあり、
ふと目を上げる。
と、
二羽の小鳥が飛んでいきました。
メガネを外して本を読んでいるため、なんの鳥かまでは見分けがつきません。
ソクーロフの映画にこれと似たシーンがあったような。
シナプスはまた別の方面へと連結され。
うん。
メガネを外した状態で見る薄ぼんやりした世界も悪くない。
しばらくそうして眺めています。
外を見ているのか、
内を見ているのか、
境界が次第に曖昧になってきます。

 

・裏木戸や保土ヶ谷に盈つ草いきれ  野衾