見える会社、見えない会社

 

第一五三項 見える教会のどの部分においても誤謬が可能であり、
したがって、誤謬が何らかの仕方で現実的であるように、
どの部分においてもまた真理の矯正力は欠けていない。
(F・シュライアマハー、
安酸敏眞[訳]『キリスト教信仰』教文館、2020年、p.977)

 

この箇所を読み、すぐに、
ラファエロ描く『アテネの学堂』のプラトンの姿を連想しました。
見える教会と見えない教会を対比し論じるところに、
プラトンの著作に親しみ、
プラトンのドイツ語版を上梓したシュライアマハー
の面目躍如、
という気もします。
教会でなく会社はどうか。
見える会社はどの部分においても、誤謬を犯し得る。
しかし、志において間違いがなければ、
真理の矯正力は欠けていないと信じたい。

 

・寒風や帰郷の山の正しかり  野衾