なぜか気になる荷風さん

 

まえに勤めていた出版社の時代に、仕事の関係から永井荷風さんゆかりの方に
会う機会がありまして。
はぁ、荷風さん、
こんなに鷗外さんをリスペクトしていたんですか、
みたいな驚きがあり。
そんな体験も関係しているのか、
熱心な読者でなく、
本も『濹東綺譚』『腕くらべ』『断腸亭日乗』の一部など、
いくつか読んだぐらいなのに、
荷風さんといえば、
なんとなく気になるんですね。
それで、
荷風さんにあこがれ慶應義塾に入学し、
その後、小説家になった小島政次郎さんが描くところの荷風さん
というのを読んでみました。

 

そういう人の真心を感じ取ることの出来なかった荷風は、
日本には珍らしいエゴイストであった。
だから、彼には本当の親友がなく、本当の恋人もなかったのは当然であったろう。
このエゴイストが、物語作家にならず、
本当の小説家となって、
彼の好きなボードレールのように生活上の真と美、
善と悪とに直面したら、
曽つて日本になかったような悪徳と罪悪の深刻な作家が初めて生まれた
のではなかったかと思う。
私はフランス語が読めず、
従ってボードレールも読んでいないが、
アナトール・フランスの「ボードレール論」を読んだところによると、
荷風はボードレールの最も大切な部分を読み取っていないようだ。
今、
私はフランスの「ボードレール論」を翻訳して御覧に入れる時間がない。
が、
最後の一句を引用すれば、
「なるほど、人としてのボードレールは嫌悪けんおすべき人間である
という説に私も同意する。
しかし、彼は詩人であった。それ故神で――いや、神に比すべきものであった」
荷風が、ボードレールのように、
自己の個性に忠実に人生と取ッ組み合って、
血みどろになって、
――そうすれば、物語作家になんかなっていられず、
いやでも真の小説家になって一生を貫かずにいられなかったろう。
そういう意味では、荷風は大事な一生を誤った。
(小島政次郎『小説 永井荷風』鳥影社、2007年、pp.388-9)

 

ある事情からながく出版されずに残っていた「ゲラ刷り」を、
ある縁から本にすることが出来た経緯につき、
小島政次郎さんの甥御である稲積光夫(イナヅミテルヲ)さんが
「追記」に記しています。

 

・夏の雲少年の日のオートバイ  野衾

 

あとがきから読む

 

つい、あとがきから読みます。
あとがきだから、あとから読むかといえば、さきに読む。
クセでしょうね。
本を書いた人の、その本にまつわる歴史を、あとがきを起点にしてさかのぼる感じ、
かな?
リクツです。
あとがきは、どのあとがきでも、
書き手のプライベートに触れていたりし、
本文とは別の味わいがあり、すこし離れた感じもあって、
好ましい気がします。
中西進さんの本も、まずあとがき「跋」から読みました。
本文を読み終り、
こんどは文字通り、さいごにもう一度。
そうすると、
なお一層の味わいがあります。

 

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ――一言でいえば本書の底の日々に、
この誓子の一句がいとしまれていたように思うのは、
甘美な自己陶酔であろうか。

 

「万葉集と漢文学」というテーマを樹ててから今日までほぼ十年間、
私はこの命題に沿って歩いて来た。
意図する処は万葉集を海彼的関連によって究明する事
であったが、
その方法的体系も新しく、
私自身もとより未熟であった。
のみならずこの間、
私は過重な労働と世俗的煩瑣との中にあって、心身ともに疲弊し果てて来た。
そうした廃土に播かれた種子が、本書の意図をはぐくみ得たか否か、
顧みて忸怩たるを覚えるばかりである。

 

しかし、
私の生活が荒蕪であればある程、
私は学問の中に自らを沈め、自らを虐待し、自らを麻痺せしめようとした。
その世界のみが純粋であり、
学問による憔悴のみが唯一の安息だったからである。
(中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、1963年、p.1015)

 

中西進さんは、1929年(昭和4)生まれ。この本の発行は、昭和38年ですから、
ちょうど60年前。
三十代前半の仕事ということになります。
この本には、この本をまとめておられたときの「いま」
が封じ込められているようで、
しずかに読み進めていると、
浦島太郎の玉手箱のふたが開いて、
「いま」の煙が立ち上がってくるようにも感じます。

 

・七夕を友と飾るや児童館  野衾

 

声にだして謡われた万葉歌

 

本をよむのは「読む」ですが、つくるの意味で短歌や俳句をよむ場合は、
「詠む」と書きます。
この「詠」という字の右側のつくり「永」は、
いつまでもながくつづく意味を表すとか。
なので「詠」は、
口から声をながく引いてうたうこと、
が原義のよう。
そういう説明を目にすると、
ありったけ首を伸ばしていい声で鳴く長鳴鶏(ながなきとり)
を、つい思い出します。
98で死んだわたしの祖父は、
なんの種類によらず鳥が好きで、とくにニワトリが大好きで、
「ニワドリは、ええ声で鳴ぐし、闘鶏もたのしいし、
なによりも、卵を産んで、暮らしの足しにもなるというのに、
子どもらは、だれもオラの血を継いでくれね(ない)。
それがなさげね(ない)」
なんてことをボヤいていました。

 

記紀歌謡から万葉集にかけての一つの不思議な現象は、
ある種の歌に限って歌の下に其一、其二……
という注記をもつ事である。
記紀歌謡にあっては下注の形をとるものは孝徳五年三月紀の造媛の死を悼んで
野中川原史満の献った歌(113・114)、
斉明四年五月紀の建王薨去を悲しんで時々に唱い、
また後に伝えよといった歌(116-121)、
天智十年十二月天智崩時の童謡(126-128)
の三種で
「其一に曰く」とするものが皇極三年六月紀の謡歌(109-111)である。
これらはすべて歌謡である記紀歌謡の中でも、
殊に実際に歌われた歌であるという共通性格をもつが、
万葉集にあっては他ならない憶良の「詠秋野花歌二首」(八1537・1538)に
「其一」「其二」と記される。
ここに歌謡性を想定する事は一見奇異のようであるが
わざわざ「詠」と記され、
別稿で詳述した如き辞賦系作家の詠誦性を考えれば、
この歌は、
実は謡われたものだという事が出来る。
従来これは私注などで漢詩における表記を真似たものとされて来たが、
表記はそれによったものであっても、
単なる表記だけの意味しかないというものではない。
元来は楽曲の為のものではなかったか
と考えられる。
類聚古集・西本願寺本らによれば、
その「其1」(「其」はない)という下注をこの竹取翁歌は和歌にもつのであり、
同様の性格を与え得るとすれば、
この竹取翁歌も「詠秋野花歌」も実は謡われたものと考え得る
のである。
ここに一見書斎的な秋野歌も
芸能的歌謡的性格を有する竹取翁歌をも包含する性格があるとすれば、
その両者に亘って作家たり得る人間は、
熊凝の為にその立場で作歌し、
志賀白水郎の為にその妻子の立場に立って作歌する人間
――憶良以外にはないのである。
別稿でも繰返したように、
憶良は他人の立場に自らを立たせて、
まるで自らの歌のような嘆きを発した作家である。
(中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、1963年、pp.875-6)

 

・泣きぬれて秋田県出戸浜の夏  野衾

 

編集者の仕事

 

いまネットで調べてみて分かったのですが、もう十三年も前のことでした。
場所は、東京駅丸の内南口そばの丸善。
そこで、
林望さんの『謹訳 源氏物語』を手にとりました。
アッとなったのは、
どのページも無理なく水平まで開いたから。
そうか、
こういう装丁があるのか
と、
そのときはじめて知りましたが、
伊藤博さんの『萬葉集釋注』を読み、
とくに大伴家持さんの仕事をつらつら連想しているうちに、
歌が記された木簡の一枚一枚が、
紙の一枚一枚とも想え、
それを結わえて出来上がる本は、
『謹訳 源氏物語』で知ったコデックス装にもっともちかく感じられ、
このごろは、
内容にかんがみ、
ものによってコデックス装を採用しています。

 

万葉集四百五十年の歴史は、家持の一首によって終焉する。
万葉集編纂の上に、家持が関わっている事は万葉集の含む諸問題の検討を、
一つずつ重ねる度に、
確かさをましてくる事柄でもある。
万葉集全ニ十巻の内、
古撰の巻たる巻一・二の大半、
大宰府の筆録による巻五、
歌集を集めた巻九、
作者未詳の巻七・十・十一・十二・十三、
東歌の巻十四、
二群より成る巻十五、
由縁ある歌を集めた巻十六という十二巻を除いた残り八巻は、
家持の資料に大半を依っているといえる。
巻十七以下の四巻は
その歌日記たる事無論であるが、
巻三・四・六・八も家持の資料によって家持が編集した事は確実である。
先に除外した十二巻も、
家持の手を経ているとしたら、
現万葉集の最終的色彩は家持によって塗り上げられている
のであって、
家持的和歌観がすべてを蔽っている
といってさしつかえない。
極端な云い方をすれば、
このような家持的和歌の中に、古代和歌が埋まって散在する
といってもよいのである。
(中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、1963年、p.425)

 

「万葉集の最終的色彩」「家持によって塗り上げられ」「家持的和歌観」、
ここに、
編集者の仕事の要諦「集め、選び、並べて結わえる」
が端的に表現されていると思います。
装丁にかんする実際の仕事は装丁家がやりますが、
装丁をふくめた本全体のコンセプトと構成、
そのディレクションは編集者の仕事。
なので、
編集者がちがえば、
中身が同じでも本としては違ったものになる、
いや、
同じ中身が違った本になり、
中身までちがって見える
といったほうがいいかもしれません。
そのことを行い、
後世に伝えてくれたのが大伴家持さん、
ということになりそうです。

 

・半ズボンの少年と独りの海  野衾

 

『詩品』と『論語』

 

『万葉集』の編纂に功のあった大伴家持さんの歌を詠むこころに、
どうやら、
中国の文学理論書『詩品』の精神がひびいているらしい
ことにつきまして、
中西進さんの本から引用しつつ、
きのう考えてみました。
『詩品』は六世紀前半に出た本で、
書いたのは南朝梁の鍾嶸《しょうこう》さんという文人です。
さてその引用文中にあった
「詩は以って群なるべく、以って怨むべし」
の文言ですけれど、
どこかで聞いたことがある、
あるいは見たことがあると思って調べてみましたら、
『論語』の「陽貨第十七」にありました。
やっぱりここでも『論語』かよ、
そんな気持ちにもなり。
しかして『論語』にでてくるこのことば、
これはさらに、
孔子が『詩経』をふまえて弟子に発したものでありまして、
ここの箇所につき、
諸橋徹次さんは、
こんなふうに解説しています。

 

○又詩経の詩は、人情に発して礼義に止まるともいわれている。
人情に発しているから、大勢の人と群をなして共に和らぐことが出来る。
(「羣」は「群」の異体字――三浦)
とは、
人と志を同じうし事を共にすることである。
而して群して党せずという言葉があるが、
上述の通り、
詩経の詩は礼義に止まるから、詩を学んだ者は、群するが党することはない。
これが可以羣の意味である。
○又詩は人情の自然に発しているから、
もとより時勢を怨み、
舜が旻天びんてんに号叫ごうきゅうするというような怨みは抱くが、
さりとて礼義に止まるから、
その怨みを以て怒りに発し、過ちを犯すことがない。
これが可以怨の意である。
(諸橋徹次『論語の講義(新装版)』大修館書店、1989年、p.415)

 

ややこしくなってきましたが、
矢印をもって表すと、
『詩経』→『論語』→『詩品』→『万葉集』
ふ~、
そんなことになるでしょうか。

 

・あこがれは暮らしのなかの日向水  野衾

 

気を晴らすために歌は詠む

 

以前、伊藤博さんの『萬葉集釋注』をおもしろく読み、
それがきっかけとなり、
学校で習ったこととは別に、
こんどはじぶんの興味から『古今和歌集』『新古今和歌集』
と詠み継いできましたが、
「令和」の名づけ親とも称される中西進さんの
若い頃の仕事『万葉集の比較文学的研究』を見つけ、
読み始めたら、
これがすこぶるおもしろく、
とくに、
歌を詠むこと、そのこころについて、
大伴家持さんがどんなふうに考えていたのか
の説明が、
いまのわたしにはとても納得のゆくものです。

 

以上題材の面で考えられる家持の傾向は、かかる歴史的位置にあったと思われる
のであるが、
第三としてその作歌態度が注目される。
即ち、
右の七夕歌の題詞にもあった「独り」という語は、
天平十六年四月五日の歌には「独り平城の故宅に居て作れる歌」(17三九一六題詞)
とあり、
この孤独感は、
青年家持に逸早く訪れているのだが、
それが和歌と結び合う関係を示すものとして、ここで注意したいのは、
次の題詞である。

 

橙橘初めて咲き、霍公鳥翻り嚶く。この時候に対して、詎ぞ志を暢べざらむ。
因りて三首の短歌を作りて欝結の緒を散らすのみ。
(17三九一一題詞)

 

これは天平十三年四月三日、
書持に報え贈った歌であり、初夏の到来についてのものであるが、
時候の変化によって「詎ぞ志を暢べざらむ」という態度は、
歌と自然との完全な結合を示しているのである。
かつ、
ここには短歌を作る事によって「欝結の緒を散らす」
といわれている。
これは後に

 

悽惆の情、歌に非ずは撥ひ難きのみ。仍りて此の歌を作りて式って締緒を展ぶ
(19四二九二左注)

 

と述べる家持の態度を既に現わすもので、
家持の歌にかかわる根本態度というべきものであろう。
そしてこの詩歌観は、
他ならぬ中国の詩歌観である。
古今集の序にも「歌にのみぞ心をなぐさめける」とあるが、
それは古来詩品の序を粉本としたものである事がいわれ、
その詩品序には

 

凡そ斯く種々に心霊を感蕩するは、詩を陳ぶるに非ずんば何を以って其の義を展べん。
長歌に非ずんば何を以って其の情を聘うかがはん。
故に曰く、
詩は以って群なるべく、以って怨むべしと。
窮賤をして安きに易へ、幽居して悶なからしむるに詩より尚きはなし。
故に詞人作者の愛好せざるなし。

 

とある。
この考えは全く家持の考えと等しいものであり、
殊に家持が「欝緒」「悽惆之意」「締緒」という言葉を用いるのは、
詩品の「窮賤」「幽居」という表現と明らかに関係があろう。
歌人家持にあっては、
それが歌学的体形化をとるという事はなかったが、
印象的・感想的には極めてこの詩歌観は共感を呼んだであろう。
詩品にしても文心雕竜にしても、
六朝詩学は必ずや天平人に読まれたに違いない書籍である。
(中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、1963年、pp.454-5)

 

ここに歌の、詩の、ことばの根本義が示されており、
たとえばシモーヌ・ヴェイユの
「労働者に必要なものは、パンでもバターでもなく美であり、詩である」
というテーゼとも、
遠くひびき合っているように思います。
また、
ここでいう和歌や短歌とはちがいますけれど、
たとえば、
ある思いから歌うことをやめた歌手が、
数年を経て、
ふたたび歌の世界にもどって来、
のびのび晴れやかに歌う姿を目の当たりにすると、
いろいろ思いはあると思います
が、
歌が好きで、
歌わずにはいられない、
いわば人間の業といってもいいような、
歌うことの本質を示しているような気がし、
ふかく納得します。
ひるがえって、
家持さんの歌のこころに触れ、
家持さんがいっそう身近に感じられてきます。

 

・目を開けてただぼんやりの夏休み  野衾

 

ボーッとしていたら

 

先日、こんなことがありました。
「こんにちはー」
の声がし、
夕刻、宅配便のおにいさんが集荷にやってきました。
おにいさん、
宅配便を置いておく所定の場所を確認し、
「きょうは、なさそうですね」
と言って帰っていくよう。
「またお願いします」
ここまでの一連の流れを、わたしはじぶんの席に居て耳で聴いていました。
社を出て行こうとするおにいさんに、
いつもなら、
「またお願いします」
と、
大きな声をかける。
が、
その日、
ちょっと考えごとをしていて、
つい、
「またお願いします」の「また」が落ち、大声で「お願いします」と言った。
言ってしまった。
それを耳にした宅配便のおにいさん、
すぐにこちらに向いて指示を待っているような姿。
わたしはあわてて
「いや。またお願いします!」
おにいさん、
納得したように頭を下げ、
社を出て行きました。
ふ~。
「またお願いします」だと、
きょうは荷物はありませんけれど、
つぎに来たときはあるでしょうから、そのとき「また」お願いします、
の意味になりますが、
「お願いします」では、
荷物はどこにも見当たらないのに、
きょう持って出る荷物がどこかに用意してあるのかな?
と思っても不思議はありません。
「また」の二音の有無だけで、
意味が大きく変ってしまうことに、
ちょっと驚きました。

 

・とりあえず予定未定の夏休み  野衾