『詩品』と『論語』

 

『万葉集』の編纂に功のあった大伴家持さんの歌を詠むこころに、
どうやら、
中国の文学理論書『詩品』の精神がひびいているらしい
ことにつきまして、
中西進さんの本から引用しつつ、
きのう考えてみました。
『詩品』は六世紀前半に出た本で、
書いたのは南朝梁の鍾嶸《しょうこう》さんという文人です。
さてその引用文中にあった
「詩は以って群なるべく、以って怨むべし」
の文言ですけれど、
どこかで聞いたことがある、
あるいは見たことがあると思って調べてみましたら、
『論語』の「陽貨第十七」にありました。
やっぱりここでも『論語』かよ、
そんな気持ちにもなり。
しかして『論語』にでてくるこのことば、
これはさらに、
孔子が『詩経』をふまえて弟子に発したものでありまして、
ここの箇所につき、
諸橋徹次さんは、
こんなふうに解説しています。

 

○又詩経の詩は、人情に発して礼義に止まるともいわれている。
人情に発しているから、大勢の人と群をなして共に和らぐことが出来る。
(「羣」は「群」の異体字――三浦)
とは、
人と志を同じうし事を共にすることである。
而して群して党せずという言葉があるが、
上述の通り、
詩経の詩は礼義に止まるから、詩を学んだ者は、群するが党することはない。
これが可以羣の意味である。
○又詩は人情の自然に発しているから、
もとより時勢を怨み、
舜が旻天びんてんに号叫ごうきゅうするというような怨みは抱くが、
さりとて礼義に止まるから、
その怨みを以て怒りに発し、過ちを犯すことがない。
これが可以怨の意である。
(諸橋徹次『論語の講義(新装版)』大修館書店、1989年、p.415)

 

ややこしくなってきましたが、
矢印をもって表すと、
『詩経』→『論語』→『詩品』→『万葉集』
ふ~、
そんなことになるでしょうか。

 

・あこがれは暮らしのなかの日向水  野衾