あとがきから読む

 

つい、あとがきから読みます。
あとがきだから、あとから読むかといえば、さきに読む。
クセでしょうね。
本を書いた人の、その本にまつわる歴史を、あとがきを起点にしてさかのぼる感じ、
かな?
リクツです。
あとがきは、どのあとがきでも、
書き手のプライベートに触れていたりし、
本文とは別の味わいがあり、すこし離れた感じもあって、
好ましい気がします。
中西進さんの本も、まずあとがき「跋」から読みました。
本文を読み終り、
こんどは文字通り、さいごにもう一度。
そうすると、
なお一層の味わいがあります。

 

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ――一言でいえば本書の底の日々に、
この誓子の一句がいとしまれていたように思うのは、
甘美な自己陶酔であろうか。

 

「万葉集と漢文学」というテーマを樹ててから今日までほぼ十年間、
私はこの命題に沿って歩いて来た。
意図する処は万葉集を海彼的関連によって究明する事
であったが、
その方法的体系も新しく、
私自身もとより未熟であった。
のみならずこの間、
私は過重な労働と世俗的煩瑣との中にあって、心身ともに疲弊し果てて来た。
そうした廃土に播かれた種子が、本書の意図をはぐくみ得たか否か、
顧みて忸怩たるを覚えるばかりである。

 

しかし、
私の生活が荒蕪であればある程、
私は学問の中に自らを沈め、自らを虐待し、自らを麻痺せしめようとした。
その世界のみが純粋であり、
学問による憔悴のみが唯一の安息だったからである。
(中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、1963年、p.1015)

 

中西進さんは、1929年(昭和4)生まれ。この本の発行は、昭和38年ですから、
ちょうど60年前。
三十代前半の仕事ということになります。
この本には、この本をまとめておられたときの「いま」
が封じ込められているようで、
しずかに読み進めていると、
浦島太郎の玉手箱のふたが開いて、
「いま」の煙が立ち上がってくるようにも感じます。

 

・七夕を友と飾るや児童館  野衾