声にだして謡われた万葉歌

 

本をよむのは「読む」ですが、つくるの意味で短歌や俳句をよむ場合は、
「詠む」と書きます。
この「詠」という字の右側のつくり「永」は、
いつまでもながくつづく意味を表すとか。
なので「詠」は、
口から声をながく引いてうたうこと、
が原義のよう。
そういう説明を目にすると、
ありったけ首を伸ばしていい声で鳴く長鳴鶏(ながなきとり)
を、つい思い出します。
98で死んだわたしの祖父は、
なんの種類によらず鳥が好きで、とくにニワトリが大好きで、
「ニワドリは、ええ声で鳴ぐし、闘鶏もたのしいし、
なによりも、卵を産んで、暮らしの足しにもなるというのに、
子どもらは、だれもオラの血を継いでくれね(ない)。
それがなさげね(ない)」
なんてことをボヤいていました。

 

記紀歌謡から万葉集にかけての一つの不思議な現象は、
ある種の歌に限って歌の下に其一、其二……
という注記をもつ事である。
記紀歌謡にあっては下注の形をとるものは孝徳五年三月紀の造媛の死を悼んで
野中川原史満の献った歌(113・114)、
斉明四年五月紀の建王薨去を悲しんで時々に唱い、
また後に伝えよといった歌(116-121)、
天智十年十二月天智崩時の童謡(126-128)
の三種で
「其一に曰く」とするものが皇極三年六月紀の謡歌(109-111)である。
これらはすべて歌謡である記紀歌謡の中でも、
殊に実際に歌われた歌であるという共通性格をもつが、
万葉集にあっては他ならない憶良の「詠秋野花歌二首」(八1537・1538)に
「其一」「其二」と記される。
ここに歌謡性を想定する事は一見奇異のようであるが
わざわざ「詠」と記され、
別稿で詳述した如き辞賦系作家の詠誦性を考えれば、
この歌は、
実は謡われたものだという事が出来る。
従来これは私注などで漢詩における表記を真似たものとされて来たが、
表記はそれによったものであっても、
単なる表記だけの意味しかないというものではない。
元来は楽曲の為のものではなかったか
と考えられる。
類聚古集・西本願寺本らによれば、
その「其1」(「其」はない)という下注をこの竹取翁歌は和歌にもつのであり、
同様の性格を与え得るとすれば、
この竹取翁歌も「詠秋野花歌」も実は謡われたものと考え得る
のである。
ここに一見書斎的な秋野歌も
芸能的歌謡的性格を有する竹取翁歌をも包含する性格があるとすれば、
その両者に亘って作家たり得る人間は、
熊凝の為にその立場で作歌し、
志賀白水郎の為にその妻子の立場に立って作歌する人間
――憶良以外にはないのである。
別稿でも繰返したように、
憶良は他人の立場に自らを立たせて、
まるで自らの歌のような嘆きを発した作家である。
(中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、1963年、pp.875-6)

 

・泣きぬれて秋田県出戸浜の夏  野衾