なんみょうほうらんげきょう

 きらいなの?すきでつつくの?ことりさん
 連休を利用し秋田に帰省した折のこと。実家の居心地の良さから朝寝坊し、布団の中にいて、辺りの気配をうかがっていると、話し声が聞こえてきた。母だった。
 だれと話しているのだろうと思って、耳を澄ますと、仏壇に向かい、亡くなった祖父母に、まるで湯のみ茶碗を持ちながら話す距離に祖父母がいて話すように、話している。
 わたしが帰省したことの報告、弟が監督を務める中学女子バスケットボール部の試合のゆくえ、父の田仕事の様子など、前日あったことを日記を綴るように話している。そこに居るものとして話しているのではない。母の前に祖父母はたしかに居る。
 祈りなのか、そうでないのかは分からない。祖父母と親しく話しているだけなのかもしれない。
 翌朝、わたしはまた布団の中にいた。そろそろ母の変わったそれが聞こえてくる頃だ。
 なんみょうほうらんげきょう。………。小声でつぶやくように聞こえてきたが、お題目に続く言葉がどんな言葉かは聞き取れない。はじまりは、なんみょうほうらんげきょう。
 南無妙法蓮華経の辞書的な意味をわたしは知っている。宗派もちがうはず。でも、母のなんみょうほうらんげきょうを聞きながら、そんなことは取るに足りない、つまらないことだと思った。
 数年前から、わたしも毎朝、祖父母の写真の前で手を合わせ、そこに二人が居る者として祈るけれど、母のようにはいかない。目を開ければ、なつかしい祖父母の顔がそこにある。