『存在と時間』

 

マルティン・ハイデッガーの主著としてつとに有名。
日本語訳がいろいろ出ていますが、
わたしが読んでいるのは、
ちくま学芸文庫のもの。
細谷貞雄さんが訳しています。
ハイデッガーがフッサールの弟子であることは承知していましたが、
細谷さんが、訳注で引用しているなかに、
ハイデッガーがいかにフッサールを敬愛していたか
がしのばれる文章があり
目をみはりました。

 

かくして人間は、
実存する超越としてもろもろの可能性のなかへ跳躍しつつ、
遠きに在る者である。
彼があらゆる存在者にむかって
みずから超越において形成する根源的な遠さがあればこそ、
それによって彼の内に、
もろもろの事物への真実の近さが高められてくる。
そして、
遠きところへ聞くことができるということこそ、自己としての現存在に、
共同現存在の応答のめざめを熟させ、
その人との共同存在において、
彼がおのれを本来的自己として得つつ
(たんなる)自我性を放下することができるようになるのである
(マルティン・ハイデッガー/細谷貞雄=訳『存在と時間 上』筑摩書房、1994年、p.501)

 

恩師フッサールへの記念論文とした『根拠の本質について』
の結びの言葉、
だとのことです。
あのいかめしい顔つきのハイデッガー(笑)に、
こういう情愛がひそんでいたのか、
と反省させられます。
ヘルダーリンの詩に近いものをも感じます。

 

・夏草や罐のやうなる馬の鼻穴(二字で[あな])  野衾