象潟の句

 

八月十九日のこのブログに書いたことの追記になります。
疑問に思ったことにかかわる箇所を繰り返しますと、

 

松尾芭蕉がこの地を訪れ、
かの有名な、

象潟や雨に西施がねぶの花

をものしたことはつとに知られていますが、
石碑には、

象潟の雨や西施がねむの花

となっています。
まだ調べがついていませんが、
石碑にはっきりそう書いているということは、
はじめにつくったのは、
「象潟の雨や~」だったのでしょう。

 

以上でありますが、
記憶にもとづいて
「象潟の雨や西施がねむの花」
を記すとき、
写真を撮ってきたわけではありませんでしたから、
確認の意味で、
岩波文庫に入っている中村俊定校注『芭蕉俳句集』(1970)を開けてみました。
その182ページに、
『おくのほそ道』にある「象潟や~」の句のあとに、
同行した弟子の河合曾良の曾良書留にある文言が掲載されており、
それは、
「象泻(潟)の雨や西施がねむの花」
となっています。
それを裏付けとしてブログの文章を書いたわけですが、
二日遅れでわたしの手元に届く八月十八日付『秋田魁新報』に、
にかほ市教育委員会教育次長の齋藤一樹さんが、
「象潟を詠む 16」として
「悲運の美女西施 雨煙る景色に重なる」というタイトルの文章を書いています。
それによれば、
「象潟や~」の句の初案は、
象潟の雨や西施がねぶの花」で、
句碑にはそれが刻まれている云々。
ここでふつふつと疑問が湧きいでてきました。
①わたしが見た句碑の文言は正確にはどうだったのか?
②句碑に刻まれた文言は文言として、そもそも芭蕉の初案はどうだったのか?

 

①の疑問を解決するため、
にかほ市役所象潟庁舎観光課に電話で問い合わせたところ、
折り返し、
象潟郷土資料館の方から電話があり、
句碑の文言は、
「象潟の雨や西施がねふの花」であることが判明。
「ふ」はかつて濁点表記をしませんから、
「象潟の雨や西施がねぶの花」
が正しく、
わたしのブログの記述は誤りということになります。
お詫びして訂正いたします。

 

さて②は。
中村俊定校注の『芭蕉俳句集』では幾度見返しても
象泻(潟)の雨や西施がねむの花
となっています。
校注本の性格からして、
曾良書留の文言はきっとこうなのでしょう。
ところが、
魁の齋藤さんの記述によれば、
蚶満寺収蔵の芭蕉自筆とされる「象潟自詠懐紙」には、
「象潟の雨や西施がねぶの花」
と書かれているという。
ふむ?
曾良が書き損じたか?
でも、それもなんだか考えにくい。
ほんとうのところ、芭蕉先生初案の句はどうだったのだろう。
?????
疑問はさらに深まり、
もうすこし調べてみたくなりました。

 

・手をかざし眉間に皺の炎暑かな  野衾