・十月の空や美智也の声すなり

帰路すっかり暗くなりまして。
皆既月食は始まったかな。
保土ヶ谷交差点を過ぎると小料理千成。
今日の客の入りは…
まずまずと。
大将かっちゃんが焼くサカナのいい匂いがしてきました。
引力をもつ匂いを断ち切り、
前へ前へ。
目の前を
小さな男の子の手を引いて
若いお母さんでしょう、
ちっちゃく歩いておりました。
男の子はオムツが外れたぐらいかもしれません。
とぼとぼ歩いても
わたしの歩くスピードのほうが速く、
難なく二人を通り過ぎ。
と後ろから、
「おサカナを焼いている匂いだね」
「アジだよ」
「え?! わかるの?」
「アジだよ」
「そうか。アジ好きだもんね」
「うん」
「アジのほかには何が好き?」
「シャケ」
「シャケか」
「うん」
「シャケのほかには何が好き?」
「アジ」
「ふ~ん」
「アジとシャケとアジとシャケとアジとシャケとアジ」
「そっかぁ」
だんだん声は遠ざかり、
今度は虫たちの合唱です。
体は重く。
階段は長く。
きょうは月は見ず。

・疲れては人の声より虫の声  野衾