畠山直哉『BLAST』

 

・緑さす雫まあるく光りけり

これはなんだろうか。
岩が破れ、四方に飛び、
例外なく
こちらに向かっても放られている。
これ、本物の写真だろうか。
疑いたくなるぐらい。
それほどの、ま、さ、に、瞬、間。
瞬間て、あるのだ。
この写真集は、
石灰石鉱山の爆破の模様を
爆破物に当たらないギリギリまで迫って撮った写真。
撮る側も撮られる側も
精密機械のような技術がともなう。
ページを追うごとに、
これって、この地球の出来事なのか、
どうやらわけのわからない宇宙のどこか
別の星の出来事なのでは、
こんな瞬間が印刷されるなんて…と、
無重力の感覚を呼び覚まされる。
『気仙川』の写真集を見、読んだときも感じたことだが、
この写真家の背骨は詩人なのだと思う。
詩人がカメラを持っている。
写真家が詩も書くという体のものでなく。
『BLAST』の「ながいあとがき」のなかの、
たとえばこの文章。
「胸のポケットから小さな手帳を取り出しては、
数字を確かめたり、鉛筆で書き込んだり、
ヘルメットの縁を指で持ち上げてまた切り羽を眺めたり。
こんな風にして何十年も鉱山で過ごしてきた発破技師だからこそ、
はっきりと「あそこまで岩は飛ぶ」と予言することができる。
彼と石灰石の間には、長年の作業を通じて生まれた、
なにか確実なものがあって、
それは、ロマン主義の詩人たちがよく用いる、
あの「照応(correspondence)」という言葉で呼ぶのが、
いちばんふさわしいもののように思えてくる。」

ボードレールの詩にCORRESPONDANCESがある。

「自然は神の宮にして、生ある柱
時をりに 捉へがたなき言葉を洩らす。
人、象徴の森を經て 此處を過ぎ行き、
森、なつかしき眼相(まなざし)に 人を眺む。
……」(鈴木信太郎訳『岩波文庫』)

照応(correspondence)について
畠山さんが言っているから、
ということでもない。
『BLAST』の「ながいあとがき」の最後のほうに、
「自然を怖れず、されど侮らず、心には常に、神を念じつつ…」
という言葉が紹介されている。
畠山さんがかよっていたある鉱山事務所の応接室に掲げられていたそうだ。
前任の所長が残していった言葉を、
写真家は、
そこへ足を運ぶたびにじっと見つめていたという。

・春の宵コットンクラブの友の顔  野衾