資料と記憶
このところ、われらが武家屋敷がデカい紙袋を持ち歩いているので、あやしからんと思い、尋ねたら、資料なのだという。
「何の資料よ?」
「ホームページのコラム用」
「はぁ?」
「週番で書くコラムのためのものです。今週はわたしが当番なので…」
「なるほどねえ。さすが武家屋敷! そんで今日はなにを持ち歩いているわけ?」
「野毛で買った文庫本やら大学の宣伝用パンフレット、チラシ類などです。記事を書くとき、固有名詞など間違えてはいけませんから」
というわけで、おそらく今日も武家屋敷はあのデカい青い紙袋を下げて出社するのであろう。わたしの場合、このコラムを家で書いているので資料を持ち歩く必要がない。というよりも、手持ちの資料で足りることしか書かない。さらに、それも面倒くさいときは、探せばあるはずのものでも「手許に資料がないので」といってお茶を濁す。言葉というのは便利だ。有難い。あるものでも、無いといえば無いのだから。
ところで、「最高エッチ!」が特集の「春風倶楽部」(No.10)が好評。佐々木幹郎、谷川俊太郎、岸田秀、飯島耕一の各氏が抱腹絶倒、かつ、身につまされる記事を書いてくれている。欲しい方は小社へご一報ください。
■たしかに、私も文章を書く場合に、まず、資料を手元に集めます。関連資料を、全部集める。だから机の上は書籍と書類が山積み状態になってしまう。
それに、出張して集中講義などをするときにも、あらかじめ資料を入れた箱を宅配便で講演先に届けておく。それで、現地に泊まっているときに旅先で研究していたりもする。
こうして、異なった場所で、新たにまた資料を収集してしまい、結局二箱を自宅に配送手配してから帰途につく。
■?書くテーマに応じて集中的に一気に集める場合と、
?日ごろから、気ままに目新しいものを何でも集めている場合(いろんなファイルや箱にいろんな資料をつっこんでいたり、将来使えそうだと踏んだ本はすぐに買い求めておく)と、同時並行で収集している。
?しかも、二様の資料収集と同時に、机の上でじっくり研究しながら、メモ用紙に、思いつきを自由に書きとめては愉しんで保存している。
?あとは、電車のなかで閃いたことや、食事中に考えついたことや、寝起きに思い浮かんだことなどもメモしている。いつもメモ帳とペンがそばにある。もちろん、枕元にも。――しかも、気楽にテキトウにやっている。だから持続できるのかもしれない。あそんでいるんですね。
?そして、自分と縁がなさそうなことにも手を染めてみたりして、そうして得たことや情報も、あらいざらい収集保存してしまう。
?そうやって、?−?のデータを自由自在にサンプリングして組み合わせて何かを創っている。
■最近、大学などで講義するときは、何も見ないでアドリブで話をしている。普段から蓄積しておいた知識を聴き手の顔色をうかがいながら自由自在に組み合わせて話している。
それで、聴き手が話の内容に退屈してザワツイテきたら、すかさず、黒板に絵を書く。哲学者の顔や美術作品の概要や風景や聖母子像など、民族衣装のファッションの設計図を書いたり、船や城を書くときもある。つまり、話の内容を瞬時にイラスト化して描いていく。すると、聴衆は、黙る。息をのむ。驚いている。
静かになったところで、また話をつづけていく。
突然、相手の意表をつくことが、相手を退屈させない講義の極意である。まあ、苦し紛れの、パフォーマンスなのかもしれないが…。
■毎日、資料と向き合っている生活が20年以上つづいていると、精密さが身に着くし、記憶の幅が広がるし、情報処理能力が加速していく。同じことを毎日することで、いつのまにか尋常ならざる技術が身についているみたいなのだ。「好きこそものの上手なれ」ということわざもあるが、サッカー少年が毎日寝ても覚めてもサッカーばかりしていたらプロ選手になっていたといったところだろうか。私の場合はスポーツもできないし、身体的にも立派ではないし、愚鈍だし、とくに優れた能力がなかったわけで、そこで、「研究」に徹しようと決意して20年やってきた。劣等感をバネにして、「研究」に賭けてみた。いま、ふりかえると、一つのことに徹してきて、ほんとうによかったと思っている。