地の依り代として

 

・群馬までときどき過ぎる花野かな

前橋文学館で開催されている佐々木幹郎展へ。
前橋は萩原朔太郎の生まれ故郷。
昨年佐々木さんの詩集『明日』が
第20回萩原朔太郎賞を受賞しましたが、
そのことを記念しての特別企画展です。
きのうがその最終日。
佐々木さんの活動範囲は広く、
詩も書きますがエッセイも書く、
湾岸戦争後、原油の流出したアラビア湾に
ひしゃくで油を掻き出しにいく「ひしゃく隊」に参加したり、
東京に住んだり、
浅間山麓に山小屋を作って住んだり、
ほぼ十年かかって中原中也全集を編集したり、
民謡の歌詞を作ったり、
それからそれから、
絵も描くし、映像も撮るしで、
まあほんとにいろいろ。
東日本大震災が起きてからは頻繁に被災地を訪れました。
そういう佐々木さんの展覧会ですから、
お宝の部屋みたいで、
ゆっくりじっくり楽しく拝見しました。
とくに推敲のあとが生々しく残っている原稿は
ことのほか面白く、
なんでかといえば、
佐々木さんがおっしゃる
「詩の言葉が出てくるときは、
自分の身体がリトマス試験紙みたいになっていて、
詩の言葉が足元からだんだん上がってきて、身体の色が変わってくる」
というイメージ(佐々木さんにとってはまぎれもない事実)
が指し示す事態が分かった気がしたからです。
依り代というのを、
わたしは自然分娩するときの妊婦がつかまる、
天井からぶら下がった綱みたいなものをイメージしていましたが、
この度の個展を見、
佐々木幹郎という詩人は、
地の依り代として詩をつむいでいると感じました。
綱が上から降りてくるのでなく
下からのぼって立っている。
その元の地がいまどうなっているか。
思う前に体が反応してしまっているのかな、
とも思いました。

・雨来る秋の祭りの散りて行く  野衾