心情の間歇

 

・秋澄むや山に行きたき心地して

二十八年ぶりの『失われた時を求めて』ですが、
六巻目に入りました。
二十八年前は
新潮社から出ていた共訳のもので読み、
それは、
大学でフランス文学をやってきた
会社の同僚に譲りました
(もう読むことはないだろうと、その時点では思いましたから)
ので、
今回はちくま文庫の井上究一郎訳で読んでいます。
二十八年前も、
それなりに生きていたとは思いますが、
今から思えば洟垂らしで、
立ち止まることなく、
ただがむしゃらに走っていた気もします。
本を再読すると、
自分のおくってきた人生と、
作品を通して作者の人生に目が行きます。
たんに歳をとっただけかもしれません。
『失われた時を求めて』が
実は『心情の間歇』だったと、
初めて知りました。
かつて九州を車で旅したとき、
別府温泉でだったと記憶していますが、
一定の間隔を置いて噴き出す間歇泉
に目を瞠ったことを思い出します。
痛みや温かさを伴って、
記憶は時に噴き出します。
手の届かぬ高さまで。
ああ、
なつかしい人に、
愛した人に、
この世では二度と会えないと。
亡くなった人はもちろん、
生きていても、
目にするのと会うのとでは違います。
それを何度か繰り返すうちに、
噴出の高さが低くなる。
時が癒してくれると下世話にもいいます。
なぜそうなるのか。
失われた時を求めて。
プルーストがぐっと身近になりました。

写真は、まるちゃん提供。

・コーヒーの湯気も粒立つ秋の朝  野衾