ありがたい手紙 3

 

 遠く来て電車の秋の眠さかな

高橋さんからいただいた手紙の最後になります。
写真集を見るとはなにか、
を考えさせてくれます。
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解体されつつある、また解体されたクジラの肉塊は、この写真集の中ではこの部位はどこだとか言うまでもなく、あるゴロンとした名状しがたい塊として読者の視覚にまっすぐ差し出される。それはクジラの頭部であるとか、尾ひれであるとか特定できる場合もあるが、荒々しく強烈な黒白のコントラストの中から常に未知の細部が迫ってくることで、読者の目は映像に慣れてしまうことができない。何事も体よく理解してしまおうとしがちな視覚の馴致作用は破綻し、目は写真の上を不規則に揺れ動き始める。むしろ、写真のほうが読者をとらえて離さない。解体され切断面が露わになった肉塊もまた一つのまなざしとなる。読者は、事実の記録という写真に課せられた役割を内側から踏み破って、生の根底に横たわる現実が露呈する現場に立ち会っていることを自覚する。どこまでも深く濃い黒が、いたましさを鎮めつつ、その黒の合間から白い光が滲んでいる。厳粛でほのかに明るいこの視覚体験が呼び覚ます感情は、喪の記憶に通じている。
ところが、そうした映像が、なんら声高な訴えとしてではなく、古くから捕鯨を業としてきた人々のごく普通のありのままの日常として、静かに黙々と定着されているところが、この写真集の凄みである。
『九十九里浜』では、漁師やおっぺしの半裸の女たちが、一人ひとり生き生きとした表情を浮かべており、その顔、顔、顔が、正面から、あるはい仰角でアップされて、目にくっきり残るのだが、今回の写真集では、解体作業に従事する人たちの顔は逆光の影になったり、ヘルメットにかくれたりして、あまりはっきりとはしていない。かえって、正面から見た顔よりは、横顔のシルエットが印象に残る。そして顔よりも人々の背中のほうが、どうしたわけか、あとまでずっと胸に刻まれるのである。水揚げされたクジラの様子や解体作業を見守る人々の姿は、遠景に小さく退いている。『九十九里浜』における逞しく朗らかな肉体の大きさは、ここには見当たらない。
解体作業の現場は、おそらく様々な音やにおいに満ちていることだろうが、それはむしろ本を閉じた後に、思い浮かんでくる。それだけ純粋な目の体験に読者は集中させられる。読者はいつの間にか、捕鯨をめぐる論議の囂しさからは離れた場所に立っている。そこでは、人間とクジラとの間に流れている長く大きな時間にこそ、思いを馳せるのである。

本書の終わり近くに鯨塚の写真がある。一目見て無意識に訴えてくるような宗教性に打たれる。長い間、供養を重ねてきた人々の信心が、日向の土のにおいのように、ありありと伝わってくる。光と影の対照はここに至って沸点に達し、羊歯の生える塚の上に散らばった光の斑の輝きは、どこかこの世ならぬもの、昔の人なら浄土と呼んだかもしれない彼岸の世界を、見る者に連想させる。ここではクジラと祖霊の区別はほとんど無くなっているような気さえする。
この写真集におけるように、地に足ついたかたちで、聖なるもの、土地に宿るたましいが示されることは現代の美術では滅多にない。でも、ラスコーの洞窟壁画以来、殺生と供犠と贖いを核として、人類は聖なるものを伝えてきたのではなかったか。宗教性と言えば、水揚げされたクジラや浜に打ち上げられたクジラをとらえた写真のいくつかには、どこか来迎図や涅槃図を連想させるようなところもあった。
勿論、この写真集は、そんな大上段の構えでなく、一人の写真家が本当に興味をもったものを真摯に写した記録であり、ある限定されたテーマを脇目もふらず淡々と追った潔さこそ好ましいのだが、ここに無意識のうちに実現されているものの射程は思いのほか遠いと言えそうである。
長らく人間は、あたかも一方的に自然をコントロールできるかのような錯覚に陥ってきた。その錯覚の中で人間の像は等身大をはるかに超えてしまっている。ところが、この写真集をじっくり見ていると、人間の等身大がいかなるものかが自ずとはっきりしてくるのである。
本書の巻末に、ここに収められた記録が「東日本大震災の影響などで、現状とは異なる部分」がある旨の短い注記を目にしたとき、この写真集が何も意図していたわけでもないのに、時代の大きな流れに向かって静かに対峙しているように感じられてきた。自然保護の観念はあり余るほどに持っていながら、科学技術の進歩に増長し、天災と人災の区別も判然としないまま、毎日漠とした不安を抱えて生きている日本人にとって、この写真集は自分の顔を映すよい鏡になりそうである。それが、いま、機が熟して刊行されたことは、出版に携わった人々の思いの深さの証しでもある。

切り出されたクジラの肉をもらいに行列する人々の背中。バケツに入れ、家路へとリヤカーを引きながら、子どもは喜々として振り返る。
どこか無頓着なそのいくつもの背中を、私はしっかり目に焼き付ける。
給食のとき、銀色のトレイにたくさん並んでいたクジラの肉。昼の時間、小学校の大きな窓から射していた光がかすかに甦ってくる。海にいる大きな黒い動物と目の前の肉は頭の中では結びついている。それがどこからどのようにやってきたのかは思い浮かべもしないまま、私は無邪気に口に運んでいた。
小学生の私の背中は、いまはうまく想像できない。だが、この写真集の中の人々が黙ってさらしている背中は、きっと私自身もいま、さらしているに違いない背中だ。私はそれをもう一度見る。そうして私は自分もまた殺生と無縁ではいられない人間であることを思い、その分際をわきまえていなければならないと切に感じる。同時に、子どもの頃の自分とクジラとの結びつきに小さな誇らしさをも自覚する。この写真集を見ているうちに逆になげかけられた遠くからのまなざしに、辛うじて私はその小さな自覚をもって応えるしか手立てがない。
けれどこの無言の問答には不思議な安らかさがある。人間が生きていく営みを底まで降りていってつかんだときの、しっかり足下が見えたという実感、着地感。それが私を安堵させるのだ。
本を閉じた後も長く眼底を去らない黒白の残像を追いながら、いのちによっていのちが養われていく、その目には見えない働きの豊かさを深く感じ、私はホッと息をつく。そうして声にならない励ましをもらったように、あらためて、生きることの原点を見つめ直そうという気持ちになれるのである。