ありがたい手紙 1

 

 目を覚まし闇と戯る月夜かな

友人の高橋さんから、ありがたい手紙をいただきました。
写真集『クジラ解体』を見ての、
というよりも読んでの共振とでもいうべき文で、
いただいてから七度読ませていただきました。
読むたびに発見があります。
「読む」ことの意味を教えていただきました。
二十二年間のわたしの拙い本づくりの体験のうちには、
砂を噛むような、
ごろた石を飲み込むようなことも間々ありましたが、
共振共鳴してくださる方がいると知れば、
よし頑張ろうという気になります。
高橋さんの了解を得、以下に掲載させていただきます。
A4判で五枚びっしりの手紙ですので、
三回に分けての掲載になります。
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写真集『クジラ解体』には、ゆっくり沁みこんでくるような魅力がある。ひととおり見終わった後にこそ、写真が無言の裡に語りかけているものとの本当の対話が、意識の奥ではじまり、ずっと続いていく。
例えば、和田浦で公開されているツチクジラの解体現場。江戸時代の絵図でも描かれていたとおり、クジラの分厚い脂肪の層が四角く切り出され、何枚も転がっている。ふと、その遠景に白い布を被った女が、立ったまま作業の成り行きを見守っているのが目に入る。その遠くからのぼんやりしたまなざしが、なぜか深く印象づけられる。まなざしは読者を目前の光景から遠くへ引き寄せ、問いかけのように引き止める。この写真集には随所に声のない問いが満ちている。本を閉じた後も、何か応えてみたくなって、記憶の中で写真との対話が続けられていく。

「俺が撮るのは癒やしの写真じゃねえ。『あんたはどう見る?』って現実を突きつけたいんだ」―パンチの効いた言葉がポンと目に飛び込んできた。東京新聞のインタビューでの小関さんの言葉である。たしかにこの写真集は、今の世にたくさんありそうな、見た目にきれいで口当たりよく、やさしい気分にひたれる写真集とは、対極にある。生々しい現実がじかに迫ってきて、ときに読者をたじろがせる。クジラの解体というテーマ自体、国際的な捕鯨論議の難航、反捕鯨運動の過熱化といった社会問題と密接なだけに、すでに十分刺激的である。
しかし、いくらでも饒舌に語れそうな題材にもかかわらず、この写真集が与える印象は、どこまでも静かで寡黙である。特定の土地と生活に結びついた記録であることは間違いないが、余計な言葉がまとわりつくことなく、純粋に写真のみと向き合う時間を体験できる。あたかも言葉を覚える前に見た光景のように、写真が提示されていく。そうして、見知らぬ光景でありながら、なぜか懐かしい気もするような特異な体験を経て、私のからだの中にじんわり残ったある独特な感じ。それは、世間に流行するような類の「癒やし」ではないが、癒やしの体験と通じ合う不思議な落ち着きであり、安堵感とでも呼ぶのがいちばんふさわしい心地であった。何に対する安堵感か。一口には表しにくいが、敢えて、人間として生きていることへの安堵感だと言ってみたい気がする。

小関与四郎氏には『九十九里浜』という代表作がある。まさに圧倒的な出来映えの写真集で、ある時代のある土地の人々の暮らしをあんなふうに活写して、裸の人間のまぎれもない真実の輪郭をとらえた力業は、これから先も色褪せることはないと確信できる仕事である。
今度の『クジラ解体』は、その姉妹編ではないが、同じ和田誠氏の装丁とレイアウトは『九十九里浜』とよく似ている。手にしたときのずっしり重く中味のつまった感じ、しっかりと丈夫そうな表紙、写真の頁の重なりが幾筋もの縞をつくり出している本の小口、写真集独特の印刷された紙のにおい。『九十九里浜』の感動の再来を期待させる本の佇まいである。実際に頁を開くと、白黒写真の極限のような力感と格調の高さにすぐ目を奪われる。
だが、一頁一頁食い入るように見つめ、ゆっくりおしまいまできて本を閉じた後、函に入れて書棚に戻すと、『九十九里浜』のときとは異なることが生じた。長い間忘れていた記憶の縁に不意に触れられたような気がして、もう一度手にとって最初から見返し、しっかりその画像をたしかめてみたくなるのである。前著の場合には、大叙事詩でも読み終えたような満腹感があって、しばらくはその余韻を味わうだけで十分なのだが、今度の写真集は、どうしてだろう、すぐにまた見たくなるのである。『九十九里浜』の頁を繰るときの楽しみや驚きとは、また違ったものが、この写真集にはある。