時を游ぶ

 初富士の虹を誘ひし青さかな
 気功を始めてから丸二年が経ちました。きのうは横浜気功教室の日でしたが、来客があり、少し遅刻して入室しました。
 すでに静功が終り、築気功の蛹動に移っていましたが、わたしはしばらく椅子に座り、目を閉じ、背筋を伸ばしました。10分ほどしてから、おもむろに立ち上がり、まわりの動きに合わせました。
 蠕動をしているときだったでしょうか。服を着ているのに、裸でからだが動いているような気になりました。緊張がほぐれ、股間が少し開いて、のびのび自由に動いています。川べりで弟とはしゃいでいた時のことが、ふっとよみがえりました。そのままその感覚を味わいながら、しばらく揺れていました。
 詩人の谷川俊太郎さんが、時は過ぎない、積もる、とどこかに書いていましたが、このごろわたしは、そのことばを思い出して一人合点しています。
 揺れる背骨はまるで年を重ねた木のようです。ゆらゆら揺れているうちに、年輪に封じ込められた時がほどけ、溶け出し、ゆっくり立ち上がってくるような気がします。揺れる背骨を感じているうちに、そうか、人間も木とおんなじなんだと納得します。ずっとむかしにあった時も、ありえた時も、これから起きてくる時も、いまの時にかさなり充溢しながら静かに揺れています。わたしはまるで時を旅する旅人になったかのごとくです。
 遊の正字「游」はもともと「およぐ」意とのことですが、旅するの意もあり、「游子」といえば、旅人、旅客を指します。
 初富士の青と白とに泥みけり

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