定義でなく

 

・言の葉の止んで楽しも落花かな

今年メインの読書は
吉川幸次郎の『杜甫詩注』でありまして、
現在、
出版社が替わって九巻まででていますが、
予定としては二十巻で完結。
もちろん弟子たちの仕事になります。
朝、
例によってしこしこと、
蚕が桑の葉を食むごとく読み進めていますが、
驚くのは、
杜甫のすべての詩にわたり、
それぞれの語彙の前例を示そうと構想していること。
吉川さんは、
杜甫を読むために生まれてきた
と豪語するほどの人ですから、
さもありなん。
しかし、
それは勝手な好悪というのでなく、
杜甫の詩に、
それまでの中国文学のエッセンスが
流れ込んでいるとの深い理解あってのことなのでしょう。
思い出すのは、
イギリスで初めて辞書をつくった
サミュエル・ジョンソン。
わたしの誤解でなければ、
語の定義よりも、
どういう文脈でつかわれてきたかの
例を示すことに意が注がれたはず。
そういう外国の優れた辞書を踏まえて、
中野好夫が
日本の辞書批判を行っていた文章も思い出します。
考えるに、
生きた言葉というものは、
特定のだれかが定義して使われるというものではなく、
そこがうれしく、たのしく、
すばらしいところだと思います。

・もういちどやり直したし桜散る  野衾