日常愛

 

・息吐いて雲眺めやる五月かな

田植えが終了したと父から電話。
稲の苗を育てるためのビニールハウスもすべて解体したと。
毎年のことながら、
収穫を願い予祝する気持ちが伝わってきます。
父がずっと続けている日記は、
この時期もっとも役に立つようです。
稲の苗は、
温度と湿度の管理が大変で、
天気をにらみながら、
ハウスのビニールを開けたり閉じたり。
日に何度となく繰り返す作業を見、
子を育てるのと同じだなと思わされます。
それ以上かもしれません。
今月三日に亡くなった詩人・長田弘さんが、
『全詩集』巻末の「場所と記憶」に、
パトリオティズムというと、
ふつう愛国心と訳されるけれど、
それは適切でなく、
日常愛が正しいのだ
と記していたのを思い出しました。
九十八歳で亡くなった祖父が
最後に見たかったもの、
それは稲の苗が植えられた田んぼだったことも。

・靴直し新しき歩の五月かな  野衾