本を読んでいて、ある連想がはたらき、そのときは、
それほど突拍子もないことには思えなくて、
むしろ、
その連想によって本の理解がさらに深まったように思えて嬉しくなったのに、
あとから、
貼っておいた付箋をたよりに読み返してみると、
一度読み返しただけでは、連想の理由がじぶんで分からなくて、
二度読み、三度読み返してやっと、
ははあ、こんなところから、
あのような連想がはたらいたのかなあ、
と、わがことなのに、
他人事のように感じられることがあります。
連想の中身は、
これまでの実体験のこともあれば、
直近の、また少し前、ずっと前に読んだ本に書かれていたことだったりしますが、
そういう連想の際の脳のはたらきは、
なんだか夢に似ている気がします。
こうした意味でのネオレアリズモが、
物語を現実らしさで飾り立てる形式的な考え方とどれほどかけ離れているかは明らか
だろう。
技法そのものについていえば、
他の多くの作品と同じように『自転車泥棒』は、
素人の役者を使って路上で撮影された作品となっている。
だが、
この作品本来の美点はまったく別のところ、
すなわち物事の本質を曲解することなく、
物事を物事そのものとしてあるがままに存在させ、
それぞれの固有性を尊重しながら愛情を注いでいるところにある。
「現実よ、わが妹よ」とデ・シーカが口にすれば、
ボヴェレッロの周りに鳥が集まったように、
現実がデ・シーカを取り囲む。
他の監督であれば鳥かごに現実を押し込め、話し方を教え込むところを、
デ・シーカはあるがままの現実と対話するのである。
私たちが聞き取るのは現実本来の言葉、
愛だけが発することのできる、反駁のしようがない言葉なのだ。
(アンドレ・バザン[著]野崎歓・大原宣久・谷本道昭[訳]
『映画とは何か(下)』岩波文庫、2015年、pp.183-4)
引用文中の「ボヴェレッロ」に訳注番号が付されており、
章末に「アッシジの聖フランチェスコのこと。
自然を尊び、小鳥に向かって教えを説いたという伝説がある。」
の説明があります。
・ひやゝかや烏の声のなつかしき 野衾

