古代ローマのストア派の哲学者に、
ルキウス・アンナエウス・セネカさんがいますが、
この方の『怒りについて』は、
こころに沁みます。
たまにこういうものを読みたくなります。
マルクス・アウレリウス・アントニヌスさんの『自省録』とか、
このごろの人だと、
ベトナム出身の禅僧で、
昨年他界したティク・ナット・ハンさんのものとか。
どうしようもない自分に嫌気がさし、
なんだかなあ、
天井を見つめ目が虚ろになっているであろう時とか、
床を這う蜘蛛くんを目で追ったり、
また、ふと、
こういうあり方でいいのだろうかと立ち止まって考えたくなる時とか、
そんな時ですかね。
すべての感覚を堅固《けんご》なあり方へとしっかり導かねばならない。
それらはもともとは忍耐強い。損ねるのを心がやめさえすればよい。
心のほうこそ、
帳簿合わせのために毎日呼び出す必要がある。
セクスティウスは常にこれを行う習慣だった。
一日が終わり、夜の眠りへ退くとき、
己の心に向かって尋ねたものである。
「今日、お前は己のどんな悪を癒《いや》したか。どんな過ちに抗《あらが》ったか。
どの点でお前はよりよくなっているのか」。
怒りも、毎日審判人の前に出頭しなければならないと分かれば、
収まって穏やかになるだろう。
だから、
一日をすべて細かに調べ上げるこの習慣にまさる、
どんなものが他にありえようか。
自己の省察のあとにやって来るあの眠りは、
どのようなものだろう。
心が賞賛か忠告を受けたのちには、
自己の偵察者と秘密の監察官が己のふるまいを見定めたのちには、
何と静かで、何と深くて自由な眠りが訪れたことだろう。
私もこの権能を用い、
毎日、
自分の審判の下《もと》で弁論を行っている。
周囲から光が遠ざけられ、
すでに私の習慣に馴染《なじ》んでいる妻が沈黙すると、
私はわが一日をくまなく探索し、己の言行を反芻《はんすう》する。
私は何も自分に隠さない。
何も見過ごさない。
何であれ己の過ちを、どうして私が怖《おそ》れなければならないというのか。
(セネカ[著]兼利琢也[訳]
『怒りについて 他二篇』岩波文庫、2008年、pp.253-4)
・読了が少し寂しき秋となる 野衾

