理解すること

 

・春の月彼のひとともに眺めやる

竹内敏晴さんが亡くなられて五年が経ちましたが、
親しくさせていただいた時間の長さもさることながら、
物事の考え方の根本に、
竹内さんとの出会いとことばによって
教えられたというよりも、
触発され、
竹内さんがすでに
ぎりぎり正確無比と感じられることばによって
ことばにしており、
だもんですから、
今も揺るがず何度でも立ち返る
基本概念のようなものがあります。
「理解」あるいは「理解する」は大事なその一つ。
引用としては長くなりますが、
ここ以上に「理解」あるいは「理解する」を
射止めたことばをほかに知りません。
「私のからだがただ主体であるだけでなく、
私にとっても相手にとっても外部=ものとして出現するとき、
相手のからだは私にとって外部=ものであると共に、
一つの主体としてそこに現象する。
そんなふうに言えそうである。
私のからだと相手のからだのふれあいは、
まさに「もの」である私のからだにおいて成り立つのだ。
そして働きかけが相手のからだを動かすとき自分の動きが相手のからだにうつる。
そして相手のからだの動きがまた私にうつってくるとき
(自他は同一の系に属する二つの項である――メルロ・ポンティ)、
私と相手とのからだが、同じ歪み、緊張を持ち、
それをとりのぞこうと闘っているからだの姿勢を了解しあったとき、
理解ということが始まる――こんなふうに言えそうに思うのだ。
もっとやさしく言うと、
今までえたいのしれぬ、いわば敵だったものが、
さわって、しらべてみて、
ははあこういうものかとわかるようなものになってくるということである。
たぶんサルだのイヌだのも、
はじめて出会う「もの」に向かっては、同じ過程をふんで相手を判断し、
その結果、逃げたり、寄ってきたりするのだろう。
昔の武芸者だったら、「わかる」とたんに、
どっちかが斬られているに違いない。」(竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』)
好きな時代小説『大菩薩峠』を読んだときもこのことばを思い出し、
また、
少々というか
かなり相当(同じか)気恥ずかしい
「愛」ということばを、
わたしは竹内さんのこの文脈でとらえ考えることがあります。
さらに次の箇所にも目を奪われます。
メダルト・ボスの『心身医学入門』中の一節、
「神経症の症状を起こさせているのは、
精神的エネルギーのうちの性的な要素の鬱滞のみではないのです。
おそらくこれこそ現代の特徴なのでしょうが、
いわゆる攻撃衝動の鬱滞が同様に著明に一般的に拡まっています」を
竹内さんは引用した後、
つづけて、
「おそらく彼女(竹内さんのレッスンに参加した女性)の場合、
抑圧された攻撃的エネルギーが体内に逆流し、
開幕間近の緊張で極度に達し、背筋を緊張させ呼吸器を圧迫したのだろう」
竹内さんの血の通った一連の思考とことばは、
ひとを理解するということがどういう事態なのかを考え、
行動として理解することに身を置こうと決心し身構えるとき、
そのことが実際にまた奇跡的に起き、
目の前に現象し、
新たな地平に破り出る根源を指し示す力として、
何度でもたちかえるべき思考=ことばだと思います。

・蚊と見れば遥か音なく国際便  野衾