バルザック的

 

・携帯のメール打ち止む春の月

東京堂書店の方との打ち合わせの後、
同行した四人で近くの魚串焼きの店に入り、
一杯、二杯。
新入社員のY本くんが頬を紅潮させ、
眼をキラキラさせている。
なんの話からそうなったのだったか、
Y本くん、バルザックが面白い、好きだという。
そうか。好きか。
たとえば?
ゴリオ爺さん。
ああ。あれは面白い。
話としても面白いけど、
人物再登場の「人間喜劇」小説群のなかの
個性たっぷりな人物が
いわば顔見せのように登場してくる。
ラスティニャック、ビアンション、ヴォートラン、ニュシンゲン…。
く~っ。たまらん!
いわば結節点にあるような小説で。
あ、そう!
バルザック好きなの。
飲みねえ喰いねえ。
鮨はねえけど串喰いねえ。
というわけで、
大いに盛り上がりました。
かつて師匠安原顯さんの創作学校に通っていた頃、
世界文学で好きな作家三人挙げよといわれ、
バルザック、ゴーゴリ、魯迅を挙げた。
今ならゴーゴリの替わりに
ドストエフスキーを挙げるかもしれないが、
やっぱりゴーゴリのような気もしちょっと迷う。
が、
バルザックに変更はない!
酒はすすみ。
Y本くんに、
バルザック全集つくらない、と提案。
言下に「つくりたいです!」
「二十年。いや、三十年かかるかもしれないよ」
「はい」Y本くんの眼のキラキラは収まらない。
東京創元社から全集が出ているけれど、
完全なものでなく、
藤原書店、水声社から選集も出ているが、
名のとおり選集。
全九十篇の小説群「人間喜劇」を網羅する日本語訳は未だない。
どう? やる?
「やりたいです!」
編集者になってバルザック全集の日本語訳に三十年を費やす。
それは、バルザックの人間観にもかなっている。
でも。
Y本くんは三十年経っても
まだ今の私ぐらいの歳。
私はといえば、
生きているのか死んでいるのか。
生きていても耄碌しているような気もする。
しかし、
それもまたバルザック的といえないこともない。
やるか。やらぬか。
それが問題。

・春の月黙して空を照らしけり  野衾