同志

 いま手元にないので記憶に頼って書くしかないが、井上ひさし作の戯曲に『薮原検校』がある。
 東北の貧しい片田舎で生まれ育ったメクラ(敢えて)の杉の市が、悪の限りを尽くし、果ては母親まで殺め、金の力で検校位を得たと思った矢先に、それまでの悪行がバレて、衆目に晒され処刑されるまでを描いた傑作戯曲。
 戯曲中、最後近く、倹約を推し進める老中・松平定信が登場し、塙保己一(『群書類従』を編纂したあの塙保己一だ)に、庶民に倹約の方法を教える良い方法はないかと尋ねる。それに答えて保己一は、倹約と反対の極にある悪とカネの権化・薮原検校を処刑するのはいかがかと提案する。どんな処刑の方法があるか、と定信。保己一は、民衆は残酷を好むもの、残酷で、残酷過ぎて祭になるようなものが良いでしょうと言う。具体的にはどんな方法がある? と定信。三段斬りというのがございますと保己一。三段斬り? 胴を縛り上げ処刑台に吊るす。第一刀で下半身を袈裟懸けに斬り落とす。頭の重さで体がくるりと反転、すかさず首を目掛け第二刀。
 あまりの残酷さに定信は息を呑み、「おまえはまるで薮原検校を憎んでいるようだな」と保己一に尋ねる。そのとき保己一が答える。「いえ、ある意味では同志です」と語る。「同志?」「はい…」
 その理由を保己一は語っていない。井上ひさしが語らせなかった。同志の意味は同志でなければわからぬということなのだろう。
 保己一はさらに定信に言う。薮原検校を処刑台に吊るす前に、蕎麦を食べさせてやってくれと。その理由も戯曲中では明かされていない。が、蕎麦というのは、当時貨幣を鋳造する金座・銀座では、こぼれた金粉や銀粉を、練った蕎麦粉で集めていたという逸話があるそうだ。蕎麦というのは言わばカネの象徴。悪の限りを尽くし、カネの力で検校位を得た杉の市に末期の蕎麦を食わせる。蕎麦はカネ。処刑台に晒され、第二刀が一閃するとき、血染めの蕎麦がだらりと首から流れ出す。
 同志という言葉、以前読んだときは、それほどのこととは思わなかった。ところが近頃、この言葉がある重みをもって迫ってくる。新井奥邃が同志だなんて言ったら叱られるかも知れない。が、少しでもいいから同じ志をもっていたい。NHKの来年の大河ドラマ『義経』の総指揮をとる黛りんたろうさんが同志ですと言ったら笑われるだろうか。
 ある方の稀有なこころと計らいで、黛さんと知り合うことができた。嵐のなかで物づくりを諦めない黛さんの明るさとユーモアが好きだ。最近黛さんから届いた原稿(どんなに忙しくても、書かなければならないことは書いて送ってくださる)に、『義経』の第一回の音合わせが終わったことが記されてあった。見終わった瞬間、目に涙が浮かび、他のスタッフの手前、急いで立ち上がりトイレに走ったとある。メールで送られてきたその文字を読みながら、わたしも目頭が熱くなった。
 会社の人たちとも、出版社だから言葉を大事にし言葉で何かを伝え合うことはもちろんだけれど、それを通じて、また、それを超え、機微に触れ合える「同志」でありたいと願う。