シンポジウム終了
「田中正造と新井奥邃に学ぶシンポジウム」無事終了。主催者側の発表によれば、参加者は120名。事前予測が150〜200名だったから、やはり選挙の影響か。
基調講演で田中正造について語った熊本大学の小松裕氏の報告の中、田中の言葉「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さず」が紹介され、合点がいくと同時に、今のブッシュの文明はまさに「山を荒らし川を荒らし村を破り人を殺す」の感を強くした。また、田中が国会議員だった当事、議員の俸給が800円から2000円に上げられる議案が持ち上がったことがあったそうだ。田中は反対したが議案は通った。田中はその2000円をそっくりそのまま返上したという。田中が政治のために自分の財産をなくしたのに対し、今の政治家は自分の財産を貯め込むために政治を利用する。
さて、新井奥邃だ。田中正造については今なら教科書にも載っているほどだから、だれでも名前ぐらいは知っている。奥邃となると、まず「奥邃」の字が読めない。おうすい。シンポジウムの質疑応答の時間、質問のために立ち上がった人が何度も「おうついおうつい」と言っているのを耳にし、思想も何もあったもんじゃないなと思った。また、田中について「ひとことで言ったらどういう人物なんですか」の質問は、質問者の人柄と講演者への不満もあったかもしれないが、文字を読み生きた思想と息吹を感じ取ることの難しさを改めて考えさせられた。
小社からは8名の参加。営業のOさんがシンポジウムの中身が「マニアックで難しい」というから、田中正造は、自分のためにでなく「ひとのために喧嘩した人」、奥邃は「ひとのために祈った人」だと言って納得してもらう。それぐらいなら言える。が、祈ることの力が、祈らない人には分からない。ぼくももちろん分からない。分からないということが『著作集』を読むと分かる。ややこしい。
地下水にも比せられる奥邃の思想は、ガウディのサグラダ・ファミリアにも似て、百年二百年かかって人の頑ななこころに染みていくのだろう。一言の結論で分かったって始まらない。
奥邃の「思想家」としての評価は、今後もなかなか難しいでしょうね。彼の「ことば」は同じことの繰り返しが多く、断片的であること自体が魅力なので、宗教家としては議論できても、思想家としての側面を体系化することは一定の困難が伴うように思えます。
彼の言葉は、独特の漢語的言い回しとリズムのよさで人の心を掴みますが、「わかった気にさせる心地よいフレーズとその繰り返し」は小泉首相(レベルが根本的に違いますが)の危うさに通じるところもあり、批判的検証が必要であるように思えます。西田哲学やスウェーデンボルグからの演繹的な解釈や「人柄」論ではなく、彼の「思想」を思想として正面からとらえる議論が出てくることを待望しています。
■新井奥邃のテクストそのものを「構造体」としてあつかうことによって、複雑で多様な作品群の奥にかくされた「論理」というか「思索のリズムの法則」をつかむことができると、ぼくは密かに考えていて、いずれその仕事をしていこうと準備しています。
■著作集が完成したときに、ようやく本格的なテクスト・クリティックが始まるのだと思います。
■今後が 楽しみです。自らも、新しい研究の潮流に乗っかれると思うと、わくわくしてきます。このようなチャンスは、そうそうありませんから。
新井奥邃と云ふ名前は林竹二さんから初めてお聞きしました。その響きの不思議さを覚えてゐます。
その時「奥邃廣禄」も見せて戴きましたが、先生が漢語が難しいと仰るほどなので私にはとても無理だと思ひました。
林先生の直接の先生だつた山川丙三郎の「神曲」も読めなかつたのですから。
先生が森有礼の研究をなすつて居られたことは知つてゐましたから(多分森有正のことを聞きに伺つたのだと思ひますが、先生の田中正造研究のことは、まだ知らなかつたやうな気がします)その関係だと思つてゐました。
その後復刻版が出たことは、インターネットで知りましたが、更に校訂版も出るとは、驚きです。読み易くされてゐるのでせうか?仮名遣ひも直されてゐるとすれば残念ですが。
花崎氏の近刊『ピープルの思想を紡ぐ』(七つ森書館、1月刊)を読み、花崎氏と奥邃の関係に今ようやくにして思いを致すことができました。このシンポジウムでは彼は基調講演をしていたのですね!
近刊のp4に、春風社の『著作集』が紹介されています。いよいよ僕も奥邃入門です!
仙人様―
花崎氏の奥邃に対するスタンスは『著作集』第2巻の投げ込み月報の記事をお読みになるとよりよく分かると思います。『著作集』の仕事に早くから理解を示して下さった花崎さんの今回の著書、いいですね。カレル・コシークの思想紹介が特に貴重でした。
返信ありがとうございます。
私も花崎氏の本は折に触れて愛読する者です。花崎氏は、軽薄でない、静かだが力強い思考の力を感じる得難い思想家だと思います。もちろんその思考に力があるのは彼の体をはった行動に支えられているわけですが。
新しい本もいいですが、岩波から出ている『個人・個人を超えるもの』と、最近文庫で復刊した『アイデンティティーと共生の哲学』を座右に置いています。後者の次のような一節に感動しました。
「私たちが自分の尊厳を失わず、冒させないと同時に、私たちも他の、自然を含む諸存在の尊厳を冒さない生のあり方とは、超越的な、ユートピア的な理念である。私たちは、日常、その理念を裏切りつつ、反省し、祈り、不断にそうした生を願って努めざるを得ない存在である。」
ありがとうございます。是非読んでみようと思います。
真宗大谷派宗務所出版部が去年出版した『対話―宗教への提言』の中に花崎さんとの対話がありますが、そこでは仙人さんが『アイデンティティーと共生の哲学』から引用された考えをさらに展開されています。