辞書の話

 最初に買った辞書は岩波の国語辞書(だったと思う)。おそらく中学校に入った年に買ったもので、今では表紙など、もうボロボロになっている。表紙の見返しにへたくそな金釘流の文字で自分の名前が書いてある。
 分からないことばが出てきたら辞書をひくと教えられた。初めて夏目漱石の小説をひらいた時、1ページに十数個も分からないことばが出てきていやになった。辞書というのは学校の先生と同じで、訊けばなんでも知っている、あいまいなところのない、ちょっと恐い、すこし面倒くさい存在だった。
 学校を出、就職し、転職。本にかかわる仕事について、辞書が「訊けばなんでも知っている」威厳のあるモノサシのような存在ではなくなった。
 辞書というのはどれも同じと思っていたのが、そうではなく、現時点における過去の集積、まとめる人が違えば、まとめる時が違えば、内容もおのずと違ってくると知った。また、語源辞典などをひくと、こんな風に言われているけれどもよく分からないという記述にしばしば出くわす。分からないなら、辞書の辞書たるゆえんがないではないかとも思うが、落ちついて考えれば、バカボンのパパ同様、それでいいのだと思えてくる。何に関することであっても、完璧な辞書というのはどこにも存在しない。編者の数だけ辞書がある。人によって、ことばを、この世の事象を、歴史をどう見るのか違っている。
 何事によらず、知らないことを知ろうとする時の一里塚が辞書で、辞書は、その先へ分け入っていく楽しみへ後押ししてくれる。ひいてひいてひきまくる。すると、未知の山があっちにもこっちにもデンとあることに気付く。