愛と孤独

 

孤独ということは煎じつめてみるというと、
本当に自分を愛してくれる人がないことですが、
そのことは反面からみると自分が本当に愛する人がないということなのでしょう。
愛は相互的なものですから
自分の愛を十分注ぎ出すことのできるような相手方があれば、
自分もその愛をもって報いられる、
そういう場合に私どもは孤独とちょうど反対になるのです。
ところが自分を完全に愛してくれる人がない
ということがすなわち自分が完全に愛する人がないということと同じことになるのです。
自分のありたけを傾注したいと人は願うのですが、
その自分の愛を十分に受けとってくれる人がない、
自分の愛を十分に受けとってくれないことは、
自分を十分に愛してくれる人がないということと同じことになるのです。
自分を十分に愛してくれる人がないから
自分の愛も十分に発揮できないことが孤独の実体でありましょう。
(矢内原忠雄『土曜学校講義第六巻 ダンテ神曲Ⅱ 煉獄篇』みすず書房、1969年、p.142)

 

すぐに、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を思い出しました。
ナチスの強制収容所で働かされている人びとにとって、
愛がきわめて実存的なものであるとの記述があったと記憶しています。
肉体的にも精神的にもつらい日々のなかで、
収容所の外で、たとえば故郷で、
いまこの時間にも、
じぶんのことを思ってくれている人がいると深く信じられる、
そのことがじぶんを生かす、
そのことによって、
生きる勇気と希望が湧いてくる、
そういう事実、いや、真実が静かにつづられていたはずです。
矢内原のこの講義が行われたのは、
1943年4月17日、土曜日。
つどう人びとのまえで講義をすることが、日々の闘いであったのだと思います。

 

・秋深し青き灸《やいと》の煙かな  野衾