ひび割れ

 鎮痛剤を飲みながら痛みを騙してきたが、痛みの深さというか質が、疲れとか噛み合わせのせいではない気がなんとなくするものだから、かかりつけの医師には申し訳なかったが、セカンド・オピニオンということもあるし、思い切って産業貿易センタービルにある著名なF歯科に行ってみた。
 噂にたがわず最新式の設備で、患者への対応も徹底している。予約して行ったのだが、初診なので、レントゲン写真を撮ってもらい、歯全体の状態も診てもらう。
 治療はF歯科の副院長があたってくれた。正直な先生というべきなのか、痛みの原因がまったくわからない、という。困り果てているようにも見えたから、わたしの実感を話してみた。以前、別の歯にひび割れを起こした時と痛みの質が似ていることを告げた。そのとき、歯は横にではなく縦にひびが入っていた…。
 先生はマスクをしていたから顔の下半分はわからない。が、目の表情が明らかに変わった。「わかりました。原因は今の時点では不明ですが、この歯であることは間違いなく、神経が冒されていることもまず間違いありません。外側からはレントゲンで見てもまったく異常がありませんが、麻酔をかけて上から削って見てみましょう」というわけで、麻酔をかけ、歯医者といえばコレ、という例の機械でジーーーッとやった。「途中、もしも痛かったら左手を上げてください」ジーーーッ。左手を上げる。「もう少し麻酔を加えましょう」顔全体が膨らむような感じになった頃、また例の機械でジーーーッ。左手を上げる。「え? まだ痛みますか。おかしいですね。わかりました。最後に、もうちょっとだけ麻酔を加えましょう」主観的には顔が破裂するかと思われた。ジーーーッ。左手を上げる。「え? おかしいですね。知覚反応があるはずがないんですが…。通常の3倍の量の麻酔をかけています」わたしもだんだん心配になってくる。と、削った歯の中を覗いていた先生が「あっ、割れています。外からはわかりませんが、たしかにひびが入っています。このせいで神経が一部腐っているようです。痛いのは、死に掛けの神経が暴れているせいでしょう」神経を掻き出す器具でグリグリとやったら、死んだ神経が掻き出されてきた。麻酔をかけているのに痛みは頂点に達していた。「今日はここまでしか進めません。麻酔をこれ以上かけても意味がありませんから。明日来られますか?」「はい」、と言うしかない。
 処方された鎮痛剤をもらって2時に来社する約束の先生に間に合わせるために、急ぎタクシーで社に戻る。痛みはずっと続いている。来社された先生の話を理解するのに苦労した。と、4時に近くなった頃、痛みがスッと消えた。すっかり。深く病んでいると感じられたその実感も消えた。ああ、治った、と思った。その時から今の今まで全く痛みがないばかりか、軽みまで感じられるようになった。もらった鎮痛剤は使わずに済んだ。数日ぶりにぐっすりと眠った。