一徹の貌

 

神田高等女学校の四年間、岩波は実に骨身を惜しまず、愛を以て生徒を率いた。
地方から来て英語のできぬ生徒の為に、
朝始業前に英語を講じてやり、
又特別講義として論語や聖書などを講じ、
その為には放課後遅くまで残ってプリントなどを作り、
寒い朝も休まず、この課外講義をやり、
その上教師が休むと岩波が進んでその補欠講義をやり、
又或る時は講義に夢中になって、教壇からおっこちたという風で、
自ら
「僕はみんなに教える時間が一時間でも多く欲しいのだから」
といっていた。
(安倍能成『岩波茂雄伝 新装版』岩波書店、2012年、pp.92-93)

 

岩波書店を創始した岩波茂雄の顔は、
写真で見て知っていたが、
若き日から生涯にわたって友人であったという安倍能成が書いた伝記は、
ひとについて語ることのおもしろさ、むずかしさ、ありがたさ
について、あらためて考えさせられた。
かならずしも全面的に褒めてはいない記述から、
だからこそかもしれないが、
かえって岩波への深い愛情がしみじみ読むものに伝わってくる。
岩波茂雄が学校の先生をしていたこと、
岩波書店の始まりが古書店経営だったこと、
それも、値引きをしない正札販売だったことなど、
知らないことの何と多いことか。
それにしても、
山口青邨の句にあるあのこほろぎの一徹のようなる貌をして
女学生たちの前で教壇から転げた姿を想像すると、
なんとも愉快で楽しい。
岩波茂雄は、
彼をきらいだというひとは
もちろんいたかもしれないが、
実際に接すると好きにならずにいられない、
どうやらそんな人だったようだ。

 

・農家在り雪に煙の白きかな  野衾