馬と万葉集

 

伊藤博『萬葉集釋注』は七に入りました。
伊藤のライフワークといっていい仕事と思われますが、
万葉集の歌を解説しながら、
恩師のこと、ふるさとのことなどについて
無理なく触れられていて、
読書がいっそう楽しくなります。
この巻には馬のことがでてきて、
わたしの子ども時代と合わせ、いろいろ考えさせられます。
万葉集の3327(長歌)3328(反歌)は、あるじの死を知って馬が悲しむさまを詠った歌。
解説の文章で、

 

この一首、簡素な言葉づかいと古樸な調べの中に真情が溢れる。
馬の声を悲しみの素材に持ちこんだ万葉歌はこの一つのみ。
(伊藤博『萬葉集釋注 七』集英社文庫、2005年、p.216)

と記したあとにつづくのが下の文章。

 

馬は人の心を知る。戦時中、筆者の生家の馬が軍馬として召された。
遠く峠を越えて、諏訪の茅野駅まで父が送って行く時、生家の前の坂道を下りきって、
右へ曲がって姿の隠れてしまおうとする所で、馬は止まった。
長い首を上下左右に跳ねて、
ひひんと鳴いた。
そしてどうしても動こうとしないのであった。
坂の上の庭で見送っていた人びとは、
泣いた。
その馬の名は亀石号。
昭和十八年(一九四三)のこと。
亀石号とはついにそのままの別れとなった。
(同)

 

読みながら、こちらの胸もざわついた。
そうして、
「何しかも 葦毛の馬の いばえ立てつる」
何でまあ、この葦毛の馬が、こんなにも鳴き立てるのかと、
万葉集四五〇〇首のなかに
ただ一か所だけ取り上げられたという、
あるじの死を悼み鳴きたてる無名の馬の声が近くに聴こえるような気さえしてくる。

 

・雪しんしんと青き故郷や道三里  野衾