意識が旅する物語

 

ヘーゲルの『精神現象学』にはそんなことが書かれています。
旅するのは芭蕉やゲーテや、
それからとにかく
ニンゲンに決まっている
かと思いきや、
この本では
ニンゲンの意識が主人公で、
いろいろと遍歴の旅を重ねていきます。
意識を意識する自己意識、
みたいな。
むずかしい哲学書として
つとに有名ですが、
そんなにむずかしいのなら、
哲学学徒ではないのだし、
あえて読む必要はないだろうと高をくくり
読まずに来ました。
が、
来月に予定しているトークイベントのテキスト『沢田流聞書鍼灸眞髄』
(医道の日本社)を読んでいましたら、
漢方では、
心臓と腎臓をあわせて精神と呼ぶ
との記述が
なんどか登場し、
へ~、そうなんだと
目から鱗が落ちるようでありました。
そうなると、
待てよ、
ヨーロッパではどうなんだ?
の疑問がもたげ、
精神といえばヘーゲル、
ヘーゲルといえば『精神現象学』
という連想から、
未知谷からでている牧野紀之訳のものを読むことになりました。
なるほどやはりむずかしい。
好ましいのはこの訳者のスタンスで、
ライフワークでヘーゲルをやってきたニンゲンでも、
分からないことは分からないと
注ではっきりそう書いてある。
ご本家ヘーゲルにまでツッコミを入れたり。
ヘーゲルのこういうところが悪いクセ
だとかなんとか。
事程左様に、
牧野紀之さん、
そうとうの個性の持ち主とお見受けしました。

 

・みだれ飛ぶ梅雨の終りの烏かな  野衾