悩みについて 2

 

じぶんのからだやこころについて悩み始めると、
迷路にまよいこんだような気持ちになってしまうことが間々あります。
そうすると、
「どうしたんだろう?」「どうして気が晴れないんだろう?」
原因はあるにしても、
考えてもどうしようもないところをグルルグルグル回ります。
そうしてますます身動きがとれなくなったり。

 

急がれる仕事は、次から次へと目の前に現れます。
それをこなしていくうちに、どういう状態に立ち至るでしょうか。
意識と注意が外に向かいます。
自分はひとまずおいて、自分の外に気持ちが向くのです。
自分の気分など、いつの間にか吹っ飛んでしまいます。
気分が多少悪くても、そのままです。
嫌な気持ちが起こっても、起こりっ放しです。
疲れても疲れっ放しです。
どうする気も起こりません。
次々に仕事を工夫していくのみです。
特別な感情が起こったところでこだわりません。
こだわっても、こだわったままで進みます。
人は、
ややもすると自分が肥大化し、主題にしたがります。
自分はこういう性格であり、
こういう好みをもち、こうした仕事はしたがらない、
というように、
自分の像をつくりやすいのです。
最近よく耳にする〈自分的には〉という言葉は、この傾向の端的な表われです。
自分はこういう人間である、
とあらかじめ規定する必要があるでしょうか。
決めつけるべきでしょうか。
いえ、
決めつける前に、
自分がこうした人間だと、そもそも分かっているでしょうか。
ましてや当人が若ければ、
わざわざ自分を窮屈な枠にはめる必要などありません。
若ければ若いほど、どんな人間にでも変えていけるからです。
〈自分〉の概念化は、ひとつとして利点はありません。
〈自分〉は、
たとえていえば水であって、
形は定まっていないと考えるほうが、よほど事実に合っています。
人は、容器次第でどんな形にもなります。
それほど、元来は自由な性質をもっているのです。
いつも「ハラハラドキドキ」の「無所住心」の境地に立っていると、
〈自分〉を主題テーマにする余裕もなくなります。
自分の外に充分な気配りをしながら日々を送るので、
自分の問題に手を出す暇などないのです。
自分を主題にして、あれこれ、裏にしたり表にしたりして見つめても、
獲物などひとつもころがっていません。
欠点ばかりが目について、自分が嫌になるのがオチです。
(帚木蓬生[著]『生きる力 森田正馬の15の提言』朝日新聞出版、
2013年、pp.96-97)

 

帚木(ははきぎ)さんは、作家であり精神科医でもありますから、
森田正馬さんについての本を書くことは、
ふしぎではありませんけれど、
文章をゆっくり読んでいると、
読者に向かって書いている(のは、もちろんのこととして)
というよりも、
自問自答しているようにも感じます。
帚木さんじしん、ごじぶんの「神経質」を見ておられるのかな、
とも思います。

 

・はるばると山の麓の残る雪  野衾