津田先生がおっしゃるには 3
歯に衣着せぬ津田先生ですが、芭蕉さんにかんしては、
そうとう評価が高いと思います。
が、一茶さんほどではないかもしれません。
一茶さんにかんしては、これはもう、いまいうところの「推し」。
ほほえましいぐらい。
熱量の高さにおどろくとともに、
津田先生の人生観を垣間見た気がしました。
さうしてまた「痩せ蛙負けるな一茶これにあり」「逃げて来て溜息つくか初蛍」
などに、
一茶みづから彼等の保護者を以て任じてゐる有様が見え、
「よい声のつれはどうしたきりぎりす」
「おとなしう留守をしてゐろきりぎりす」
「鷦鷯きよろきよろ何ぞ落したか」
などに於いて、
彼等に対する限り無き優しみと親しみとが現はれてゐるのを見るがよい。
「雀子の早知りにけり隠れやう」
「塊も心置くかよ巣立鳥」
に至つては、
人の心を恐れなければならぬいたいたしい子雀や巣立鳥を憐むの情が、
真心から現はれてゐる。
だから
「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」
「ねがへりをするぞ脇よれきりぎりす」
と、
この小動物の危険を慮り、
「親不知蠅もしつかり負ぶさりぬ」と、人の背に依頼する蠅の心をいとしがり、
「やれうつな蠅が手をする足をする」
「我が味の柘榴へ這はす虱かな」
と、
蠅や虱の生命を庇はうとするのも自然である。
「虫どもが泣き言いふぞともすれば」
といひ、
「馬鹿鳥よ羽ぬけてから何思案」
といふ類は、
やゝ冷眼に彼等を見てゐるやうに聞こえるが、
実はさうでなく、
最も親しく最も愛するものを最も馴々しく取り扱ふ態度である。
猫の恋に対しても同じ情が見えるので
「うかれ猫どの面さげて又た来たぞ」
などにも、
蕩子に対する慈母の情に類するものがある。
「かはいらし蚊も初声をあげにけり」、
蚊の初声をもかはいらしく聞く一茶ではないか。
従つて「逢坂や手馴れし駒に暇乞ひ」の駒の主の惜別の情は、
彼の深く同感したところであらう
(古来の駒迎の歌にこんなのは一首もあるまい)。
だからまた、
「まかり出でたるはこの藪の蟇にて候」
「雨一見の蝸牛にて候」
のやうなものには、
一茶自身が蟇となり蝸牛となつてゐる感のあるのも、怪しむに足らぬ。
「時鳥蠅虫めらもよつくきけ」の「蠅むしめら」
も
時鳥に同化した作者の口つきである。
のみならず、
彼に取っては動物もまた彼を愛するのである。
「小便所こゝと馬よぶ夜寒かな」
「犬どもがよけてくれけり雪の道」
と、
彼が馬にも犬にも感謝してゐるのは、この故である。
動物を友として見、恋するものとして見、子を愛する親、親を慕ふ子、
として見ることは、万葉の詩人にもあつた。
しかし一茶ほどの愛を以てあらゆる万有を包んだものは彼等には無かつた。
一茶は日本の生んだ唯一の愛の詩人であり、
一茶の句はすべてが愛の句である。
彼が或る時期に故郷を悪んだのは、故郷を愛することの深かつたがためであり、
彼に世間嫌ひの気味があつたのは、
人と世とを愛することの強かつたがためである。
真に人を愛するものにして始めて真に人を悪み得るのである。
(津田左右吉[著]『文学に現はれたる我が国民思想の研究(七)』岩波文庫、
1978年、pp.324-326)
「真に人を愛するものにして始めて真に人を悪み得る」
そうかもしれません。
一茶さんについて、評伝、戯曲、小説などいろいろ出ていますが、
津田先生に教えてもらった一茶句の味わいを、
こんご忘れることはないでしょう。
・硬き音たてて転がる木の葉かな 野衾