津田先生がおっしゃるには 2
津田左右吉さんの物言いは、文字どおり歯に衣着せぬというのがあたっている
ようで、
メリハリが効き、共感するにも、そうとは感じられぬときにも、
こちらの見方が鏡に映される気がします。
下に引用する文章は、共感をもって読みました。
かういふ軽い調子で人生を見てゐるのであるから、
彼が上にも述べた如く「わび」の境地を領解しそれに一味の同感を有つてはゐ
ながら、
それが芭蕉の如く彼の詩人生活の基調とならなかつたのは、
当然である。
「嵐雪と蒲団引きあふわび寝かな」
「鬼貫や新酒の中の貧に処す」、
それを興がつてゐるのに無理はないが、
「鍋しきに山家集あり冬籠」には寧ろ造作の嫌ひのあるのを見るがよい。
芭蕉の風狂は芭蕉の人格から出たもの
であるが、
蕪村の句に現はれてゐる寂しさとわびしさとを愛する心持ちもまたその滑稽味
も、
たゞ彼が詩人として理解し得、共鳴し得たにとゞまるので、
それは他の豪快を喜び艶麗をめでる場合と同様である。
芭蕉は自己の体験そのものを十七字詩に表現した
のであるが、
蕪村は客観的に存在する如何なる情味をも自己に同化し得て、
それを句の上に飜訳したのである。
蕪村は詩人ではあるが芭蕉の如き哲人ではない。
(津田左右吉[著]『文学に現はれたる我が国民思想の研究(七)』岩波文庫、
1978年、p.309)
芭蕉さんの句の景と蕪村さんの句の景を対比しての、
これほど腑に落ちる文章をわたしはこれまで読んだことがありませず、
それだけになおいっそう、芭蕉さんの句が好きになりました。
蕪村さんの句も。
どちらもそれぞれいいなぁと思います。
・初笑ひして目の奥に在る孤独 野衾