え! 無知の知じゃないの!?
岩波書店からでている『アリストテレス全集3』を、
きほんてきには眉間にシワを寄せながら、やっと読み終えました。
それでも途中、何か所かは、
は~、そうですか、なるほどなるほど、
と合点がいったり、
げんみつ過ぎてプッと笑ってしまう箇所もあったりで、
こういう読書もあっていいかと思いました。
このブログに取り上げるのは、
先週で終りにしようと思っていたのですが、
「ソフィスト的論駁について」
の第34章の本文に付された納富信留(のうとみのぶる)さんの訳注に、
おどろくべきことが書かれていたので、
わたしじしんの備忘録として引用し残したいと思います。
まず本文。
われわれは、提出された問題について、
一般にもっともそう思われることとして前提された命題から、
なんらかの推論を成す能力を見出すことを目標とした。
これが、問答法そのもの、
および、試問術の仕事だからである。
だが、
問答法は、ソフィスト術との隣接性ゆえに、問答法的に試問することができる
だけでなく、
当の事物を知っている者としてそれができるように、
推論能力そのものに加えて備えがなされている。
このことゆえ、
われわれは語られた仕事、
すなわち、
〔1〕問い手として答え手に言論を認めさせる能力だけでなく、
〔2〕自分が答え手となって言論を引き受けた時に、
提題を同じ仕方で、
一般にもっともそう思われる前提命題から推論されたものとして守ることを、
この論考の主題としたのである。
その原因をわれわれは語ったが、
このことゆえに、
ソクラテスは問いかけるだけで答えを与えなかったのである。
彼は「知らない」と同意していたからである。
(アリストテレス[著]山口義久・納富信留[訳]『アリストテレス全集3』
岩波書店、2014年、pp.465-466)
はやとちりなわたしは、引用した箇所のさいごのところにでてきた
「このことゆえに、
ソクラテスは問いかけるだけで答えを与えなかったのである。
彼は「知らない」と同意していたからである。」
を読み、
「お。無知の知か。」とこころのなかで呟き、
ちょっと安堵したのでした。
そうしたら、
安堵したのも床の間、いや、つかの間で、
ここに訳注が付されていた。
「アリストテレスはソクラテスの「不知の自覚」を「試問術」
として位置づけている。「知らないと知っている」(無知の知)といった、
後世(キケロ以来)のミスリーディングな表現
がここで用いられていない点にも注意。」
ふむ。
トホホなわたし。
「無知の知」と「不知の自覚」。
似ているようで、よく考えると、たしかに違っているような。
それと。
こういうことを言う、言いきる
ことの覚悟とでもいうのか、
翻訳の仕事というのは、並大抵のことではないと、
あらためて教えてもらいました。
・冬晴れやヘクトパスカル波高し 野衾