ソクラテスさんとペロポネソス戦争

 

教育哲学者の林竹二さんは、
わたしにとりまして、
いろいろな意味で忘れがたい方でありますけれど、
林さんの本に『若く美しくなったソクラテス』があります。
「若く美しくなったソクラテス」とは、
プラトンさんを指すわけですが、
こんかい林さんが若き日に翻訳されたA.E.テイラーさんの『ソクラテス』
を読み、
「若く美しくなった~」の発想のヒントが、
テイラーさんの本にあったのか
と感じました。
また、
ソクラテスさんから始まるギリシア哲学、
ひいてはその後の哲学史を考えるうえで、
ペロポネソス戦争を抜きには語れないということを、
トゥキュディデスさんの『戦史』と
訳者の久保正彰さんの解説で知りましたが、
その文脈で考えをめぐらせていたとき、
テイラーさんのこんなことばに目が留まりました。

 

初期の対話篇の言辞が、プラトンその人の意見を表白するものと解される
とすれば、
後期の対話篇に見られる、
より好意的な(民主主義に対する)判断は、
ソクラテスの運命によつて深く傷つけられた精神の上に、
時の何ものをも和げる力が作用した結果であるとして説明される。
或はさうであるかもしれない。
併し、
このより手厳しい評決がソクラテス自身のものである事の心理的な可能性も
つねに存在してゐるのである。
ペロポンネソス戦争の経過と共に雅典のデモクラシイの性格が
漸次偏狭に酷薄に成りまさるにつれて、
ソクラテスの幻滅は、
彼が戦前の偉大なる「五十年」に生ひ立ち、
そして恐らくは全く異つた事態を希望しかつ期待してゐたであらうだけに、
一層苦渋なものがあつたであらう。
最も晩年の作たる「ティマイオス」の中で、
プラトンはソクラテスをして、
政治的生活の実地の経験を欠くため自分は一箇政治の「空論家」
(doctrinaire)の如き存在であると告白せしめてゐる。
クセノフォン(「メモラビリア」)からして、
我々は、
籤で長官を選ぶといふデモクラシイの慣行を皮肉つた事が、
彼が今それに答へてゐる、
ソクラテスに対する訴訟事件に於ける告訴事由の一をなしてゐた事を
知りうるのである。
(テイラー[著]林竹二[訳]『ソクラテス』桜井書店、1946年、pp.243-244)

 

引用にあたり、漢字は新字にしてあります。仮名はそのまま。
雅典はアテネ。

 

・ふくら雀と見紛ふ空中の葉  野衾