さすがゲーテさん
がっこうでならう知識なら、けっこういまもおぼえています。
たとえば九九。
にさんが六、しろく二十四、しちしち四十九、くは七十二。
ね。
ひとよひとよにひとみごろ、
とか。
すいへーりーべーぼくのふね、
とか。
女医(joy)が来てくれた「喜び」とか。
A whale is no more a fish than a horse is.だって。
これ、
「クジラが魚でないのは馬が魚でないのと同じ」
と訳すんでした。
おぼえたとき、なんか変なの、って思った。
クジラが魚でない、のは、馬が魚でない、のと同じ、って、
そんなの、あたりまえじゃん。
けど、それは、
すでにわたしが、クジラのことをある程度知っていたからで、
クジラが海にいる生き物であることを考えれば、
「クジラが魚でない」
ことの意外性がこの例文のキモであると知り、
そんなこともあってか、
いまだにおぼえています。
こういうだれでもに共通する知識なら、がっこうで教えられるし、
おぼえられるけど、がっこう時代をふくめ、
じぶんの人生でつかんだ「これ」
の微妙さ超微妙というのは、
なかなかひとには伝えられません。
石は物いわぬ教師である。石は見る者を黙らせる。石から学ぶ最善のものは、
他に伝えることができない。
私がほんとうに知っていることは、私自身だけで知っているのである。
それを口に出したところで、
めったにうまくいったためしがない。
たいていは反対や躊躇や黙殺をひき起こすだけである。
(ゲーテ[作]関泰佑[訳]
『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代(下)』
岩波文庫、1965年、pp.287-288)
さすがゲーテさん、いいこと言うなぁ。ほんとーだ。
ふと思いついて、たいした発見ではないけれど、
でもこのこと、だいじかもしれないなぁ、
と感じられ、
だれかに分かってもらいたいと思っても、
じょうずに話す自信がなくて、分かってもらえないのだったら、
話さないにこしたことはない、
じぶんの胸にしまっておこう…。
そう思うことが、これまでたびたびあった気がします。
こどく、は、そこにもあります。
・ふくろふや字を知るまへの帳面に 野衾