恩師のひとこと

 

大学では、日本経済史のゼミに所属していました。
恩師は、嶋田隆先生。
日本の農村共同体が、商品経済、とりわけ貨幣経済に触れ、
どのように解体していったか
を実証的に研究したグループのお一人でした。
含羞をふくんだにこやかな笑顔が忘れられません。
嶋田先生があるとき
(どういうときだったか、どうしても思い出せません)
「ゲーテのヴィルヘルム・マイスターなんかを読むと…」
とおっしゃった。
どういう文脈だったか、
ずっと気になっていました。
いまビルショフスキさんの本を読んでいて、
かかえてきた疑問へのヒントがあると感じられる箇所に目がとまりました。

 

ナマケモノに関する論文では、
もともと海で生きるように定められた巨大生物が、
生活条件の変化にともない、
内的素質と変更しがたい外界とのあいだに不均衡をきたすほど退化したもの
だ、
という大胆な仮説を立てている。
最後に詩的証言もないわけではない。
『ファウスト』第二部のホムンクルスの証言がそれで、
彼は人間を目指して上り、
それにたどり着くまでのあいだ、
大海に身を投じ、
万物に命を与える水のなかで有機的自然の発達を追体験することになる。

 

そうやって幾千もの規範に従い、
幾百、幾千もの形に変化しつつ動いているが、
いや人間になるまでには、まだまだ時間がかかる。

 

これらの発言はすべて一八二〇年以後のものである。
それはゲーテの生涯の最後まで続いている。
これらの発言には観念的な考察が併存し、
統一性と多様性の活きいきとした絡み合いが共存しており、
それが時間的発達の継起関係に移行しようとする傾向を示している
のは見まがうべくもない。
いや、
これらの発言のいたるところに、
ほかでは厳しく禁じている「なぜ」、「どこから」の問い
も大胆に発せられている。
これは時間的進化を問うための控え目な出発点
である。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]
『ゲーテ その生涯と作品』岩波書店、1996年、pp.987-988)

 

わたしが嶋田先生のゼミをえらんだ理由の一つは、
現在わたしたちが意識し感じている「わたし」という観念が、
歴史的に形成されてきたもので、
それは、
共同体の変化とどうやら表裏一体のものであるらしい、
というのがあったから。
その興味と、引用したビルショフスキさんの記述が重なります。
「生活条件の変化」「人間になる」「時間的発達」
「継起関係」「時間的進化」
このあたりに、
形成された「わたし」の意識が反応します。

 

・通路往くワゴン静かに窓は秋  野衾