ヘブライズムとヘレニズム 1
哲学者の小野寺功先生の話に「ヘブライズムとヘレニズム」のことが、よくでてきます。
梅原猛さんについて話されているときに、
梅原さんにとっても、だいじなテーマであったろうと。
ヘブライズム、ヘレニズム、
学校でも習ったような。
ヘブライズムは、ユダヤ教・キリスト教の文化、
ヘレニズムは、ギリシアの思想・文化。
ヨベルという出版社から出ている『渡辺善太著作選』をこのごろ読んでいたのですが、
「ヘブライズムとヘレニズム」について書かれているところがあり、
『聖書』のなかに
すでにそれを指し示すエピソードが記されている、
との記述があり、
目をみはりました。
ヨハネによる福音書でこの「時」ということがきわめて重要であるということは、
この語が数回重要な場面に当たってくり返されていることによってわかります。
第七章には
「イエスの時がまだ来ていなかった」
と言われ(30節)、
ことに第一二章には「人の子が栄光を受ける時がきた」
および
「わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。
しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです」
と言われております(23、27節)。
すなわちカナの婚礼においてまだ来ていないと言われた時が、
いまや到来したのでありました(参考8・20、13・1、17・1など)。
しからばこの到来した時とは、
いかなる時であったでありましょうか。
この「時」が到来した時こそ、
ヨハネによる福音書における最も重要な点であり、
そこに描かれているイエスの生涯における最も重要な危機であります。
すなわちそれは
「祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシア人がいた。
彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて
『君よ、イエスにお目にかかりたいのですが』」
と申しいでた時でありました(12・20~21)。
ここでこの「時の到来」を真に理解するためには、
この「ギリシア人」という呼称が手がかりとなります。
この呼称は
自然的、理性的立場における人間が、
そのいっさいの機能を用いて到達し得た最高の文化のにない手なる「ギリシア人」
の意義において用いられております。
したがってそれは人間の自然的自我の拡充と、
その自然的憧憬の満足とに対する象徴的呼称であります。
近代に至って
「ヘブライズムとヘレニズム」という対偶《たいぐう》によって
「自己否定と自己肯定」とが対照せられましたが、
ここにはこのヘレニズムの権化《ごんげ》として、
この呼称が用いられているのであります。
(渡辺善太[著]『渡辺善太著作選 1 偽善者を出す処 偽善者は教会の必然的現象』
ヨベル新書、2012年、pp.182-183)
引用文中に「自己否定と自己肯定」ということばがでてきますが、
我が事としても、
正直にいえば、
まず我が事として、
ずっと考えてきたし、いまも考えていることであります。
またさらに「ヘブライズムとヘレニズム」の問題は、『聖書』をどう読むか
にも密接にかかわっていると思われます。
・虫歯無しされど歯の浮く溽暑かな 野衾