許すこと

 

かえりみれば、みずからを誇ることなど、とてもできないのに、
ついついむかっ腹を立てて、ひとに対して怒りがもたげてくることがあります。
ふるい知人から、
瞬間湯沸かし器と冷やかされたことがありました。
いけない!
と考えるより前に、感情の湯が沸きます。

 

テオプラストスは言う、
「善き人ならば、悪人に腹を立てないことはできない」
と。
この論法でいくと、
誰でも善き人になればなるほど腹を立てやすくなるであろう。
だが見るがよい、
誰もみな反対に一層和やかになり、感情から解放され、また誰をも憎まなくなる。
罪を犯した者たちが、過失によってその罪に駆り立てられた場合には、
どうして彼らを善き人が憎む理由があろうか。
実際、
聡明そうめいな人は、過あやまつ者を憎むことはない。
憎むとすれば自分自らを憎むであろう。
自分は幾たび美徳に背いて行為しているか、
その行なった行為の幾つが許しを求めねばならぬか、
などを彼は自ら反省するであろう。
そうすれば、
自分自身に腹を立てることにもなるであろう。
なぜというに、
公平な審判者は、
自分の問題と他人の問題に、それぞれ別々の見解を下すことはないからである。
自分を無罪放免にし得る者は見付からないであろうし、
また自分を潔白だと言う者は、
証人の方を振り向いて言うのであって、
良心の方を振り向くのではない、
と私は言う。
罪を犯した者たちに優しい、慈父のような心を示し、
彼らを追跡するのではなく呼び戻してやるほうが、
どれほど人情味のあることではなかろうか。
道を失い原野をさ迷う者を正道に導くことは、それを放逐するよりも
良策である。
(セネカ[著]茂手木元蔵[訳]『道徳論集(全)』東海大学出版会、1989年、pp.136-137)

 

セネカさんが兄のアンナエウス・ノバトゥスさんにあてて書いた
「怒りについて」の文章のなかからの引用。
そのとおりと思います。
なかなかできることではありませんけど。
でも、あきらめず、
こういうことばに触れ、ときどき反省することは意味のあることだと思いたい。
また『聖書』「ヨハネによる福音書」の第八章には、
こういうことが書かれています。

 

イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、
座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、
真ん中に立たせ、
イエスに言った。
「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、
あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、
指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、
年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、
イエス独りと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「女よ、あの人たちはどこにいるのか、誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、誰も」と言うと、
イエスは言われた。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはいけない。」

 

・春光や通いなれたる路の白  野衾