ハイデッガーの「沈思的思索」と「故郷」

 

彼の言うところによると、
人間には「計算的思惟」rechnendes Denkenと「沈思的思索」besinnliches Denkenという
二つの思考があり、
しかして人間とは「思索的即ち熟慮的(sinnend)な存在」である。
だから、
「計算的思惟は、沈思的思索ではない、
即ち、
存在するすべてのものの中に支配している意味をば思索する思索ではない」。
「今日の人間は思索から逃避している」。
人間の本質は沈思し瞑想する思索を行うところにこそあるのである。
ヘーベルの言うように、
「我々は植物である、
――そのことを我々が認めようと認めまいとそんなことにかかわりなく――、
私たちは、
エーテルの中に花咲き果実を稔みのらせ得るために、
根をはって大地から生い茂らねばならない植物である」。
人間のなし能《あた》う歓ばしき救いある功業があるとすれば、
それは、
このように、
「故郷の大地の深みから、エーテルの中へと」登りゆくものでなければならない。
エーテルとは、
「高い蒼穹そうきゅうの自由な空気、精神の開けたる領野」
のことである。
そこに人間の住むべき故郷があり、
かつ沈思的思索の赴くべき場がある。
だが、
「大地と蒼穹の間の人間の安らけき住まい」は、今日果してあるか、
人間は今日真に「土着して」bodenständig、
沈思する精神を以て生きているか。
否である。
フィルム、ラジオ、テレビ、新聞、技術的報道機関が、
屋敷のまわりの田畑、大地の上の蒼穹、昼夜の歩み、村のしきたり、
故郷の世界の伝承よりも、重んじられ、
「今日の人間の土着性は、その内奥で脅かされている」。
原子力時代の今日、
人間は土着性を喪失し、
喧噪を極めた機械技術装置の中に己れを見失ってゆきつつある。
「来たるべき変貌が何かを、誰も知ることはできない」。
だから、
とハイデッガーは言う、
我々は今日、沈思的思索を生かし返さねばならない、
と。
(『渡邊二郎著作集 第2巻 ハイデッガーⅡ』筑摩書房、2011年、pp.428-9)

 

まえに読んだ上田圭委子さんの『ハイデガーにおける存在と神の問題』のなかで
幾度も触れられていたのが、
渡邊二郎さんの『ハイデッガーの存在思想』でした。
ほかの本も取り上げられていますが、
わたしの印象では、
この本が、
上田さんにとって、おそらく、
とても大切なものであり、
こころのふるえ、
のようなものを文章から深く感じたものですから、
それが入っている著作集の第二巻を求めました。
わたしは上田さんにも、渡邊さんにも、会ったことがありません。
渡邊二郎さんは、
二〇〇八年にお亡くなりになっています。
しかし、
文章から、
そのお人柄を想像することはできます。
「放送大学叢書」の一冊『自己を見つめる』を読んだのが、そもそもの始まりでした。
緊張しながら、おもしろく、読みました。
文を通じて、お人柄に触れたことからくる緊張だったか、
と思います。
いま読んでいる渡邊さんのこの本によって、
わたしは初めて、ハイデッガー言うところの「存在」「存在者」
を知った気がします。
上で引用した箇所など、
静かな感動をもって共感します。
現代と現代に生きる人間、また自身について、
渡邊さんがいかに深く考え抜いたか、
その証のような文章であると感じます。
しかも驚くのは、
ハイデッガーの深い理解をもってこの本が終り、
ではないことです。
ハイデッガーを深く理解し、
すればするほど、
それをもって現代のさまざまな問題の解決に資するに十分であるのかという、
その問いの真摯さに、
感動を覚えずにはいられません。
一度読んで終りというのではない、
現代の古典であると思います。

 

・片付けのシンクの皿や水温む  野衾