漢字のもつ象徴性

 

象形は絵画ではない。具象というよりも、むしろ抽象に近いものであり、
それゆえに象徴性をもつ。
たとえば一本の小枝を手にもつものは尹いんである。
笹を持って舞う狂女のように、
その小枝は神が憑りつくものであり、
従って尹とは聖職者をいう。
尹がさい
(「口」という字の二本の縦棒が上の横棒よりも少し上部に突き出ている形)
によって神託を求めるとき、それは君である。
君とは女巫にして王たるものである。
文字の構造的理解には、
それぞれの形体素の含むこの隠微な象徴的表現を、
的確にとらえることが必要である。
象徴画の図形構成のうちに、
その絵のなかのことばをよみとることが必要であるように、
象形文字は
その図形の意味をよみとらなくてはならない。
漢字は古代的な一種の象徴画にほかならないからである。
(『白川静著作集 1 漢字Ⅰ』平凡社、1999年、p.198)

 

この考え方が、白川静さんのもっともユニークで画期的なところだと思います。
具体的には、
引用した箇所にもでてくる「さい」の意味を読み解いたことが、
ひとつの大きな成果だったと考えられます。
「君」だけでなく、たとえば「告」
牛(似ているとはいえ、正確には「牛」ではないのに、これまでそのように説明されてきたし、
一般的な漢和辞典には、そのように記載されています)
に口と書くわけですが、
白川さんによれば、
牛と見なされてきたのは牛ではなく枝であり、
口と見なされてきたのは口ではなく「さい」(神への祝詞を容れる器)
である。
「告」は神への切実な祈りの象《かたち》であった
ということになります。
白川さんの『字統』『字訓』『字通』が入った電子辞書
をどこかで出してくれないものでしょうか。

 

・雨上がる獸を追ひ虹の中へ  野衾