前嶋信次と玄奘三蔵

 

アラビア語原典からの翻訳で名高い前嶋信次さんの文章を読む機会が多くなり、
なんとも言えない味わいがあって好きなものですから、
これを機に、
六巻までで止めていた『アラビアン・ナイト』のつづきを、
七巻目から、あらためて読み始めました。
ながいながい物語は、
わたし自身のブランクなど、
ものともせずに、
滔々と流れていくようであります。
『アラビアン・ナイト』原典からの翻訳は、
前嶋さん晩年の最大の仕事であったはずですが、
完結まで至らずにお亡くなりになりました。
その仕事を継いで終わらせたのが池田修さんでした。
さて、
その前嶋さんの著作に『玄奘三蔵 史実西遊記』があります。
前嶋さん48歳のときの仕事です。
その末尾は、
玄奘三蔵を語りつつ、
その人物と人生への敬仰はもとより、
自身の決意を吐露しているように思われ胸に迫るものがあります。

 

墓に土をかけ終ったときが忘却の初めであると云う。
しかし、それは玄奘法師の場合にはあてはまらなかった。
六年たって總章二年(六六八)の四月八日に、
高宗皇帝は勅して、その遺骨を長安の南三十里にある樊川の北原に改葬し、
塔を建てて祀った。
もとの白鹿原はあまりに長安に近く、
巡行のときしばしばその墓畔を過ぎるため、
高僧の生前を偲んで哀傷に堪えられぬからと云う理由であった。
やがて高宗も世を去り、
そのかみの佛光王が帝位に登ると玄奘に「大遍覺」と云う諡オクリナをささげた。
ささげた帝も、その母である則天武后も次々に世を去り、
玄宗皇帝の開元天寶の時代を經て肅宗の時となると「興敎」と云う塔額を贈った。
彼の譯出した多くの經典は廣く東方に行われ、
わが國にも多數が舶載された。
そして譯經界に一つの時期を劃したのである。
その經を讀まぬものにも、
その人の事蹟は慕われ、懷しまれた。
いまではほとんど全世界の人々に親まれている。
ことにわが國にはその遺骨までが移されている由である。
その人がらのかぐわしさ、つよさ、きよらかさが
このささやかな書にも影をおとさんことを。
(前嶋信次『玄奘三蔵 史実西遊記』岩波新書、1952年、p.187)

 

・山路来て甘酒二人茶店かな  野衾