ホメロスの聴衆

 

ところで、ホメロスとヘシオドスの作品自体はその内容から見ても、
この偉大な叙事詩人たちには多くの先行者がいたのではないかという推測を抱かせる。
ヘシオドスの『神統紀』については特にそれが言えるのであって、
この叙事詩は本質において、
これ以外にすでに存在していたにちがいない膨大な量にのぼるこの種の作品
を解明する共通の鍵なのである。
しかしホメロスもやはり、
登場するすべての英雄たちや、
彼らに関係のあるたくさんの事実が周知の事柄であることを前提とし、
また数多くの人物についてもほんのざっとしか触れない。
それは聴衆が、
どこで知ったか分からないが、
とっくに彼らのことを知っているからなのである。
ホメロスがまず聴衆を
直接事柄のまん中へ《イン・メデイアス・レス》導くのではない。
彼の聴き手たちは、
彼らのまわりを英雄たちの神話が滔々《とうとう》と流れ巡っているのであるから、
すでに
事柄のまん中に《イン・メデイイス・レブス》いるのである。
ホメロスが聴き手に与えるのは、
巨大な一箇の全体から切り取った一つの切片のようなものである。
彼の叙事詩においてとりわけ輝きを放っているのは、
ヘシオドスの手から漏れた神統紀の残余、
ヘラクレス伝説やアルゴ号遠征譚の残余である。
(ヤーコプ・ブルクハルト[著]新井靖一[訳]『ギリシア文化史 第三巻』
筑摩書房、1992年、p.100)

 

ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』を読んだときに、
『オデュッセイア』は、
まぁ、ふつうにおもしろく読みましたが、
『イーリアス』となると、
なかなか手ごわく、
「おもしろい」と言えるところまではいかなかった、
というのが正直なところです。
その理由の一端が、
上に引用した箇所を読み、
分かった気がします。
ホメロスといい、ヘシオドスといい、
当時のギリシア人は、
叙事詩を読んだのではなく、聴いたのだということも含めて。
ブルクハルトの『ギリシア文化史』は、
2800年ほどまえ、
さらにそれ以上まえのギリシアに、
読者を案内してくれます。
ブルクハルトは、
声を掛けられれば、
いまいうところの市民講座のような場所でも積極的に講義をしたそうですが、
然もありなんと納得します。

 

・清方の着物も居たり梅雨入りかな  野衾