フーコーのキリスト

 

この現世に姿を現わしたキリストは、人間の条件がふくむすべての印、
失墜した人間性の刻印そのものを自分のものとすることを承諾したのであり、
貧困から死にいたるまで、
キリストは、
さまざまの熱狂《パッション》と忘却された知恵と狂気〔=愚かさ〕、
こうしたものへの道程たる受難《パッション》の道をすっかりたどった。
しかも、
狂気は、キリストの受難の一つの形態
――ある意味では死に先立つ最後の形態――であるから、
それによって苦しんでいる人々において、
今度は尊重とあわれみの対象となるのである。
(ミシェル・フーコー、田村俶[訳]『〈新装版〉狂気の歴史 古典主義時代における』
新潮社、2020年、p.207)

 

むかしもいまも、イエス・キリストを狂人とみる見方があります。
日本の場合はどうかというと、
歴史の教科書で習ったごとく、
ソクラテスやブッダや孔子などと並び称され、
むかしむかしの偉い人、
という類でしょうか。
イエス・キリストを論じる日本人の著作を読んで感じるのは、
論じる著者の「わたし」と
イエス・キリストとの
距離感。
遠ざかる風景=距離は感じるものなので。
教科書で習った「むかしむかしの偉い人」に対する距離感は、
さほど変っていないのではないか
と想像されます。
『性の歴史』を読んだときにもそうでしたが、
キリスト教文化圏に生を享けたフーコーを読んで感じるのは、
イエス・キリストとの距離が、
あたりまえのことかもしれませんけれど、
日本人のそれとはどうも違っているということ。
フーコーの生に、
イエス・キリストが抜き差しならぬぐらいに食い込んでいる、
そう思います。

 

・とつ国の蹠ひろびろ涅槃像  野衾