意識・回想・経験

 

純粋な観念的感受は、
その発生の最初の様態にあっては、決して意識を含んでいないのである。
この点で、観念的であれ命題的であれ、
純粋な心的感受は、純粋な物的感受と類似している。
いずれの型の原初的感受も、或いは命題的感受も、その様々な提携者たちによってのみ、
その主体的形式を、意識で豊かにし得るのである。
意識が存在する時はいつも、
何か回想recollectionという要素が存在する。
それは、
無意識の薄暗い奥底から、より初期の諸相を呼び戻すrecall。
今からずっと以前に、
この真理は、
プラトンの想起reminiscence説において、主張された。
プラトンが、
純粋形相の超時的天空に由来する霊魂の中に生き残っている永遠の真理の閃きを
直かに思惟していた、ということは疑問の余地はない。
それは兎に角として、
一層広い意味で、意識は、それに先行する経験
――単なる所与として論ずるならば意識なしにも存在し得るのだが――
を照らすのである。
(A.N.ホワイトヘッド[著]/平林康之[訳]
『過程と実在 コスモロジーへの試論 2』みすず書房、1983年、p.357)

 

いわゆる哲学の本を読むときは、
ページがなかなか進まず、
最中に鏡を見たことがないので分かりませんが、
だいたいは、
おそらく眉間に皺を寄せて読んでいるのじゃないかと思います。
だったら読まなくてもいいじゃない。
そうなる。
でも。
だれかから、
なんでそんな難しい本を読むの?
と訊かれれば、
おそらくつぎのように答えることになりそうです。
用語、論旨がむずかしくてなかなか理解に及ばないこともあるけれど、
著者がじぶんのテーマと決めた問いを真剣に追いかける、
その真剣で真摯な思考の過程に寄り添って
こちらも考えてみる、
その体験が、
ほかのジャンルの本では味わえない愉楽をもたらすと感じられ、
ゆっくりでもページをめくることになる云々。
すると、
上で引用したような箇所に遭遇し、
目を上げ、
しばし瞑目するようにして「経験」の泉に意識を集中する、
そんな瞬間が訪れ、
ルーティンとなっている一つ一つの行為の底から
汲めども尽きぬ清水が湧いているような気がしてくるのです。

 

・鳥が行く関東平野梅雨入りかな  野衾