フーコーと聖書

 

ミシェル・フーコーの遺作『性の歴史 Ⅳ 肉の告白』が、
フーコー没後三十数年経ってようやく
二〇一八年にフランスで出版され、
その日本語訳が昨年一二月に出版されました。
わたしはかつて『性の歴史』のⅠ~Ⅲまでを買っていたのですが、
まぁ、Ⅳが出たらまとめて読むわ、
と、
棚に並べて置いていた
のですが、
いくら待ってもいっこうに出る様子がなく、
そのうち興味関心もとこへやら、
古本屋を呼んでどっさり売ったとき、
『性の歴史』三冊も、
読まずに処分してしまいました。
あれから三十年、
綾小路きみまろめきますが、
ぐるぐる興味関心が経めぐり、
そうしているうちにわたしはとっくに還暦を過ぎ、
じぶんことを振り返ったとき、
またこの間の読書を通じて
人類の歴史を振り返ってみたとき、
性の歴史は、
いわば人間と人類の背骨であるな
と感じるわけで、
ようし、
せっかくだから、まとめて読んでみよう、
という気持ちになり、
Ⅳは新刊で、
Ⅰ~Ⅲは古書で求めました。
ゆっくり、味わいながら読みたいと思います。
ところで、
Ⅳの巻末にある引用文献索引を見て驚きました。
聖書からの引用がふんだんになされていることが分かります。
アーレントを読んだときも感じましたが、
フーコーもまた、
じぶんの勉強と思索の基礎に聖書を置いている。
そうか。
フーコーは、
一巻目を書いた後、
執筆の構想において大きく舵を切ったそうですが、
その要因の一つが聖書にあったか、
との想像も湧いてきます。
そのことも含め、
じっくり読みたいと思います。

 

・意識はあれど春眠の眼裏  野衾